崖っぷちの恋愛
崖っぷちの恋愛
まったくもって状況を理解していないことは、百も承知だった。
理解していないからこそ、混乱はしていてもこうやっておとなしくしていてくれる。それくらいは、佳主馬にもわかっていた。
(ほんと、バカだ)
心の中で、そう吐き捨てる。べつに自棄になったというわけでもないけれど、冷静かつ客観的に捉えれば自暴自棄にしか見えないような行動を、今から起こそうとしている自分自身に向かって。
少し前、とっさに導き出されたのは、ものすごく短絡的な結論だ。どう考えても戦略としてはお粗末だというのに、いざ触れてみれば嫌でも全身に熱が回った。
他でもない、自身の鼓動がうるさい。
まるで壊れてしまいそうなほどに、大きく脈打っている。まだ、指で頬と唇に触れただけなのに。
「ぜっ、前言撤回って、それって」
「だから、先手必勝」
ためらいなく口からこぼれた言葉だけは、嘘みたいに落ち着いて聞こえた。
落ち着いているはずなんか、ない。もしかしたら、今こうやって馬乗りになっている相手よりも、よほど混乱しているのかもしれない。
当たり前だ。ただ指で、まるで壊れ物に対するように触れるだけで満足することなんて、今さらできるはずがない。
佳主馬が上体を傾げば、互いの吐息が聞こえるほど間近へと、互いの顔が近づく。
目を見開きながらも、せわしなく健二はまばたきを繰り返していた。
「健二さんみたいな人は」
身体を支えていた左手と、自分のものではない唇の輪郭をなぞっていた右手を静かに動かして、健二の頬をそっと包み込む。
健二がまばたきをするたびに、わずかな筋肉の動きが手のひらへと伝わってきた。そんな、あまりにも些細な刺激にすら、佳主馬の身体は──否、どちらかといえば心が反応する。
どくん、と鼓動が高鳴って。
じわり、と心がしびれて。
誰にも、渡したくなくなる。
その瞳に他の人間なんて映して欲しくないと、心の狭いことまで思ってしまう。
「どうせ、口で言ってもダメなんだ」
単に、佳主馬がちゃんと心を伝える術を知らないだけかもしれないけど。
それを口にしたところできっと、今の佳主馬に健二を独占することなどできやしない。そんな権利もなければ、それが叶うための要素すらなかった。
「ねえ」
目を丸くする健二と、至近距離で見つめ合う。
好きだと言えば、佳主馬のやることは大抵大目に見てくれるようになった。どう考えても行きすぎな行動もした覚えがあるけど、年下のかわいい弟とでも思っているのか、たしなめられたことも怒られたことも、一度もない。
(僕の気持ちに応えたくなるなんて、そんなことを言うなら)
それが、与えられた他人からの好意に流されただけなのだとしても。
冷静に考えれば、そんなことであっさりと流されてしまう健二の性質に頭を抱えたほうがいいのかもしれいけど、それですら利用したくなる。
なにしろ、嫌なことをするわけじゃない。
ただ、今まではそれを行動に移すのはさすがにどうなのかと、なけなしの自制心を騒動心して我慢していただけなのだから。
「目、閉じてよ」
「えっ!?」
健二の鼻の頭に、歯を立てることだってできそうだ。それほどに、近い。
ここまでされても、佳主馬がなにをしようとしているのか理解していない健二は、はたして救いようのないほどに鈍いだけなのか。それとも、あえてその答えから目を逸らしたいだけなのか。
(どっちでもいいか)
どうせ、佳主馬の心は変わらないのだから。
「だから。目、閉じて」
「だ、だって……っ!?」
それ以上はもう、言わせなかった。
健二が発しようとした言葉ごと、先ほどまで触れていた唇を塞ぐ。ただ、自身の唇で軽く触れただけだったけど、見事なほどに健二の動きは止まってくれた。
キスの仕方なんて、佳主馬だってよく知らない。それまで、そんなもの必要なかったから。
健二に出会って、いつしかこんな苦しい気持ちを常に抱えるようになって。その正体に気づいたときに、衝動であれこれと無意味に調べはした。本来、佳主馬が抱えることになったこの感情や衝動は自然の摂理に反したもので、どうやって解消すればいいのか見当もつかなかったからだ。
そんな、付け焼き刃の知識ではあったけど。
(健二さん)
触れた唇は表面こそかさついていたけど、おそるおそる舌で舐めて湿り気を与えれば、いつしかしっとりと濡れて。
ついばんでいるだけで、触れ合ったところから溶けていくような気さえしてくる。
視界が閉ざされているからかもしれない。佳主馬の感覚のすべてが、健二と触れ合っているところへと集中している。
唇と唇、手のひらと頬、そしてすっかり下敷きにしている健二の身体。
──そこで、ふと気づいた。
唇を自分のそれで塞いだままそっと目を開けると、そこには案の定な光景が見える。
「……目、閉じてって言ったのに」
「な、ななななな?」
ほんのわずかだけ距離を空けたものの、しゃべろうと口を動かすだけでやはり唇が触れ合えそうなほど間近でそう呟けば、健二は目を白黒させてまったく言葉になってない言葉を発した。
わけのわけらないことを口走っているわりには佳主馬を押しのけようともしないし、この場から逃げようともしていない。ひょろひょろで頼りないとはいえ、その二本の腕は存在すら忘れられているのか、所在なげに納戸の床へと投げ出されている。
「キスするときは目を閉じるもんだって、どっかに書いてあったよ」
「……ってええええ、ちょ、まっ」
床とお友だちになっていた健二の腕が、やっと役目を思い出したのか、わたわたと謎の動きを見せた。
それでも、やはり我が物顔で腹の上を占拠する人間約一名を、排除しようとする気配はない。意味もなくただ動かすことで、動揺を逃がそうとでもしているのだろうか。
(……だと、いいけど)
せめて、そっちのほうがいい。
キスまでしているのにわかってもらえなかったなど、笑い話にもならない。まさかそんなことありえない、と言い切れないあたりがなんとも言い難いものの。
「なっ、なんで!? なんでキス!?」
──なにしろ、今さらこんなことを聞き返してくる人だから。
「好きな人にキスしたいって思っちゃ、いけないの」
「そ、そういうことじゃなくてっ。っていうか、それは僕にもわかるけど! で、でも、なんで、今?」
「他に誰もいないから」
「え、って、あわわわわ」
また、健二の目がまん丸くなった。見開かれたまぶたに触れるだけのキスを落とすと、うろたえたような情けない声が聞こえる。でもやはり、その場から動くことはしない。
健二が頭を動かせないのは、佳主馬が両手で頬を包み込んでいるからだ。力なんて、じつはたいして入っていない。全身の力をこめれば頬に触れている手どころか、きっと馬乗りになっている佳主馬すらはね除けることができる。
頬から右手だけを離して、まだ意味不明な動きを続けている健二の左手をつかんだ。指を絡めてみると、佳主馬のそれよりも少しだけしっかりしている指と大きな手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。