崖っぷちの恋愛
完全にインドア理系草食系男子高校生である健二の手なんて、細くて筋肉もついていなくて、頼りないだけだと、ずっと思っていた。
(でも)
今、その頼りないはずの手に触れて指と指を絡めただけで、こんなにも満ち足りた気分になるのはどうしてだろう。そしてそれと同じくらいに、心のどこかが焦燥と飢餓を訴える。
(足りない)
これだけじゃ、全然足りない。
「何度も言うけど、僕は健二さんが好き」
「わ……わかってるよ、知ってる」
絡め合わせた手を口元まで引き寄せて、健二の指に唇を寄せた。
「ひゃ、ひゃあああ?」
キーを打つときの邪魔にならないように短く切られた爪の生え際に舌を這わせると、力のまったく入っていない情けない悲鳴が上がる。
「なに」
「な、なななななにしてるの、佳主馬くん」
舌の動きは止めないままにそう口にすれば、動揺もあらわな健二の声がそれに応えた。
「健二さんの指、舐めてる」
おそらくは困惑しきっているだろうその表情は見ないまま、佳主馬はそう続ける。
爪から指の関節へ、そして指のつけ根へ。じんわりと汗をかいた健二の指を舌で味わえば、ほんの少しだけ塩気を感じた。
(たぶん、勝ってるよね)
心の中で、佳主馬はそんなことを思う。
健二と夏希の仲は、夏希から贈った頬へのキスで止まっているはずだ。それを考えれば、確実に。
なのに、焦りが募る。
それは、健二が佳主馬の勢いに流されただけだと、他でもない佳主馬自身が身に染みているからだ。
「お、美味しくないと思います」
「そう?」
「そう……って、あの、佳主馬くん?」
声に促されて視線を健二と合わせれば、おそるおそるとしか表現しようのない上目遣いとぶつかった。
──とりあえず。
事態を把握しているのかしていないのかわからない健二にその気になってもらうには、どうすればいいのだろう。
「何度も言ってるじゃん。先手必勝だって」
「だ、だからなにに。なにを。どれを。というか佳主馬くん、なにと戦ってるの」
「夏希姉ぇ」
「へっ!? なっ、ななななんでそこで夏希先輩が出てくるの?」
「……正確には違うかな。健二さんと」
「僕ぅ!?」
すっとんきょうな声を上げる健二の「頼むから、僕にも理解できる言葉でちゃんと説明してください」と懇願する視線は無視して、佳主馬は右手で健二の指をとらえたまま、左手を健二のシャツの裾から中に潜り込ませた。
指に当たるのは、金属の感触。スラックスに通されたベルトだということは見なくてもわかったが、それを外さなければダメなのかと思うと面倒くさい。
「ちっ。なんでベルトなんてしてんの」
気がつけば、舌打ちがもれていた。
佳主馬に睨みつけられた健二は、一瞬ヘビに睨まれたカエルのような顔をしていたものの。
「いや、だってしとかないと落ち……じゃなくて!」
すぐに、我に返ったようだ。
「か、かかかかか佳主馬くん、なななななにして」
空いていた右手を床につき、せっぱ詰まった様子で上半身を起こそうとする。それでも、佳主馬につかまえられた左手は振りほどこうとはしないままだった。
ただ、佳主馬の顔が健二とかなり接近していたということは。
「ぷは」
「ご、ごめんっ」
佳主馬は、健二の腹に乗っていた。そして馬乗りになられている人間が上半身を起こそうすると、かなりの前傾姿勢になっていた佳主馬の頭が健二の胸のあたりに激突することになる。
結果的に健二の胸に顔を埋めることになってしまった佳主馬だったが。
(……まあ、これはこれで悪くないけど)
でも、これだと少々やりにくい。
この先が。
「なんなの、急に起きあがって」
「いやそもそも僕、べつに寝っ転がってたかったわけじゃなくてだね……というか佳主馬くんに押し倒されたような気がだね」
「それがどうかした?」
上体を起こされてしまって目的は達成しにくくなったけど、佳主馬は諦めてなんかいなかった。
ただ、目的を達成しようとすると、健二の腹の上に乗っている自分自身が邪魔になる。ベルトを外すにも、それをクリアしたあとも、結局はこの場をどかない限り先には進めない。
だが、今ここをどいてしまったら、健二に逃げられてしまう気がする。
「ど、どうかしたって、それこっちのセリフだから。な、なんで?」
頭の上から降ってくるのは、戸惑いでいっぱいになった健二の声だ。
そこに、嫌悪の色はない。怒りもない。
だから。
「……既成事実」
健二の胸に頭を押しつけたまま、佳主馬はぽつりと本音を呟く。
「きっ……!?」
「作ったほうが、早そうだから」
表情はまったく見えなかったが、健二の顔が瞬時に引きつったことは見なくてもわかった。
それに配慮するつもりは、ない。そして口に出して言ってしまった以上、実現させなければ意味がない。
ずっと健二の指と絡めていた右手を離し、シャツの襟からのぞく鎖骨へと目的を持って手を這わす。思ってもいなかったところにいきなり触られて、健二の身体がぴくりと跳ねた。
「それに、健二さんのことだから」
開襟シャツはいちばん上のボタンがひとつ外されているだけで、あまり隙間や余裕はない。そのまま手を動かすのは、少しばかり無理があった。
シャツのボタンをはじき飛ばしてしまうわけにはいかないから、ひとつずつ外すしかない。でも、空いている左手でそれをこなすのはこれまた難しそうだ。
(めんどくさいな)
やっぱり、どう考えても直接触るのがいちばんだと思うのだけど。
(もっと、ちゃんと調べとけばよかった)
そこにたどり着くまでも、意外と難易度が高かった。さすがに、佳主馬の経験値が低すぎる。
そもそも、経験など皆無なのだから仕方がない。
でも。
「やることやったら、責任取ってくれそうだし」
絶対に、そうだと思うのだ。
健二は流されやすいが、責任感がないわけではない。むしろ、責任感は強いほうだろう。
最期になってしまったあの日、栄から夏希のことを頼むと託されたと聞いた。そしてその事実がある限り、よほどのことがなければ健二が完全に佳主馬のほうを向いてくれることはない気がする。
栄は、もういない。もういない相手との約束がもたらす効力は、最強レベルに強い。
前言撤回することなどできないし、約束を破ってしまったときに謝ることすらできないのだから。
だから、それを上回るためには。
栄との約束の効力を凌駕するほどに強く、健二の責任感に訴えかけなければならない。
「せ……責任って」
「男同士でもできるらしいから」
結局、佳主馬が行き着いた答えは、そこだった。
しかも、やればいいってもんじゃない。より効果的にするためには、佳主馬にとっては忌々しいものでしかない年齢差だって利用できるなら利用する。
幸いというか、あいにくいというか、佳主馬はまだ十三歳だ。
十七歳から見れば子どもでしかない、が。それは、何度考えても悔しいけど。
だからこそ、健二の責任感に訴えかけることができるという事実にも気づいてしまった。
「で、できるってなにを……?」