崖っぷちの恋愛
どこか引きつったような声が耳に入る。頭を上げてちゃんと座り直せば、健二と目が合った。
困っていると表現するよりは、答えは想像つくがそれを認めたくない、とでも言いたげな顔だ。
(往生際悪いな)
それなら、と。
視線を泳がせる健二の顔をもう一度両手で固定させると、佳主馬はじっとその目を見つめる。
「セック……」
「わ、わあああああ!! いっ、言わなくていい、言わないでいいから! むしろ言わないで!」
「もが」
──結果、片手で口を塞がれた。
「……ひょっと、はにふるの」
「ご、ごごごごめん! で、でも、あの、それは佳主馬くんにはまだ早いと思うよ……!?」
いっそのこと、口を塞ぐ手のひらを舐めてやろうかという気になっていたのだが。それを実行に移すより早く、健二の手は離れていく。
少しだけそれを残念に思いながら、佳主馬は改めて健二の顔を見上げた。──あわてすぎたせいなのか、それとも佳主馬が言い損ねた単語のせいなのか、妙に赤くなっている。
奥手だということは知っていた、が。
(想像以上だな)
今時、とっくに経験済みの中学生だってそれなりにいるというのに。
「そんなの、僕が自分で決めるからいい」
年齢を利用しようとしてはいても、やはり子ども扱いされれば面白くはない。ぷいと横を向けば、あわてた健二の声が追ってくる。
「で、ででででも、年齢はおいといても、僕なんか相手じゃつまんないと思うよ? 女の子みたいに柔らかいわけじゃないし、そもそも男だし」
「僕は健二さんがいい。キスするのも触るのも、健二さんじゃないと嫌だ。大体、最初に好きだって言ってるでしょ。何回言わせるの」
「あ、いやだから、忘れたわけじゃなくて」
「いいけど。何度でも言うから」
「え、えええええ。で、でも、やっぱりこれとそれとはまた別問題っていうか」
なんだか、すっかり堂々巡りだ。好きな相手に触りたいと思うことの、どこが悪いというのか。それがたとえ四歳年上の同性だったとしても。
それに、おそらく。
健二はひとつ、誤解している。
「ああもうっ。往生際悪い、健二さん。それに、僕がやるわけじゃないし」
「へ?」
思いがけないことを言われた、と。じつにわかりやすく表情を変える健二に、佳主馬はじっとその視線を合わせる。
きっかけは佳主馬が作らなければ、どうにもならないと思っていた。健二にそんなつもりがあるとは、どう考えても思えなかったからだ。
ただ、健二に責任を感じてもらうためには。
あくまでも、佳主馬は被害者──というのもおかしいけど、ダメージが大きいほうでなければいけない。
大体、だ。
「僕がやったら、それ犯罪になっちゃうじゃん。健二さんの同意もないのに」
「え、えええええ!?」
「だから健二さんのを立たせて、それを僕に入れれば問題ないでしょ」
佳主馬としては、最初から決めていたことだ。
だから躊躇することもなく、あっさりと口にできたのだが。
(……って、なんでこんなこと、いちいち説明しなきゃなんないの)
一応、そんな不満はある。健二に察することを期待するのは無茶というか無理難題以外のなにものでもないのだろうけど、でもさすがにこれを説明しなければならないのはどうなのか。
……だが。
「だっ…………」
返ってきた健二の反応は、それこそ佳主馬の予想外のものだった。
「ダメッ、ダメダメダメ、ダメだってば!」
「え?」
途端に真顔になって、健二は眉をつり上げる。手首をつかまれて、佳主馬は少しだけ首を傾げた。
「なんで」
「なんでって……だ、だだだだって佳主馬くんまだ中学生だから! まずいから!」
「だから、歳は関係ないって言った」
「関係あるよ!」
勢いも、先ほどまでとはまったく違う。驚いているわけでもない。困っているわけでもない。
(怒ってる?)
……というのも、少し違う気はした。
ただ、なにかに憤っている。そんな声と、表情。
──栄が亡くなったあの朝、真顔でただひとり、万助の意見に賛成したときに見た、あの顔。
「…………っ」
そんな顔を見せられたら、なにも言えない。
ただどうしようもなく胸が高鳴って、そしてどうしようもなく痛くなる。日頃は気が弱くて情けなくて、すぐにテンパってはあわてるというのに、いざというときだけ明確な意志を見せる、その瞳。
佳主馬がとらわれたのは、この顔だ。出会ってからたった数日でその存在に圧倒され、そして陥落した。
すでに他の人のものだと知っていても、あきらめられなかった。あきらめられないならと、勝率は低くても戦うことを選んだ。いざ戦ってみれば、なまじ相手が流されやすかっただけに、うまくすれば手に入りそうなところまでたどり着いて。
そして、今。真剣な表情で真っ正面から自分を見つめる健二の視線に貫かれて、佳主馬は言葉すら失っている。
「それに中学生なのもあるけど、佳主馬くんまだ小さいじゃないか。そんな無茶、しちゃダメだよ」
正論なのはわかっている。基本的に、健二はあまり間違ったことを言わない。
──だけど。
それは、佳主馬の逆鱗でもあった。
「……だって、それしかないだろ」
顔をうつむけて。
ぎゅっと、健二のシャツを握りしめる。こぼれ落ちた声は、自分が思っていたよりも小さかった。
他に方法なんて、思いつかなかった。認めたくはないけど、十三歳なんて本当は子どもなのだ、きっと。
それでも、たぶん。
好きになってしまった相手が健二でなければ、おそらくはもっとうまくやることができたはずなのに。
年上の、しかも美人のまたいとこと、相思相愛だなんて人でなければ。
「え……え? か、佳主馬くん?」
急に様子の変わった佳主馬にあわてたのか、泡を食った健二が顔をのぞき込もうとしてくる。それから逃げることはせず、でも視線を合わせることもないまま、佳主馬は言葉を続けた。
小さな、声で。
「僕が夏希姉ぇに勝とうと思ったら、それしかない。健二さんに責任取らなきゃって思うようなことさせないと、僕に勝ち目なんか残ってない」
「せっ、責任!?」
健二の叫びは、まるで悲鳴のようだ。
(なんで、こんなことまで言わなきゃいけないの)
つくづく、貧乏くじだ。全部白状したら、健二が哀れに思って策に乗ってくれるわけでもないのに。
それに気づいてしまえば、ますます気持ちが落ち込んでいく。一瞬でもうまくいきそうな気がしただけに、その傷は深い。
「というか、だからなんで夏希先輩? さっきもそんなこと言ってなかった?」
なのに、健二はそんなことを言うのだ。
だから。
「だって……だって、健二さんが好きなのは夏希姉ぇじゃないか!」
がばっと、それまで伏せていた顔を上げる。まっすぐに健二をにらみ返した視線は、今まででいちばんきついものだったに違いない。
「えっ? え……えええええ!?」
目を剥いて驚く健二の反応なんて、信じない。それを信じられるほど、佳主馬はもう子どもではないつもりだった。
「違うとか嘘ついたら、もうなに言われても強引に押し倒す。乗ってやる」