プラトン的愛の構造 前編
慈郎は普段、他人のことには余り興味を示さない。気ままな自分の世界の中で呼吸をしている。
そんな子だと思っていた。でも纏う空気は柔らかで温かく、周りの者をこんなに安心させてくれる存在だった。
壊れそうだった俺を優しく包んでくれた。
いつも優しい瞳で見てくれていたのに、初めて気が付いた。
慈郎の作ってくれたちょっと形の歪なオムライスの上に、ケチャップで慈郎の好きな羊の絵を描いてくれた。
もし、慈郎の愛を受け入れる事ができるなら・・・
「うまい」
「あたりめぇだよ。俺のオムライスは家でも美味しいと評判なんだよ」
得意そうに慈郎はスプーンを振り回しながら子供らしい仕草で笑う。
おそらくそれも自分に対する慈郎の気遣いだと思った。
罪深い己。
いつも自分が寝ているベットを今日は慈郎のために示度する。
どうしても独り寝、出来そうも無い夜。暗くて長い夜。
降りしきる雨音だけが、悲しいぐらい耳の奥に単調なリズムを送り込む。
「今日はゆっくり寝なよ。俺はリビングのソファーでいいから」
部屋の電気を落として出て行こうとする慈郎のシャツの裾を力なく掴んだ。
はっとして振り返った慈郎。
慈郎の顔を見ないでその腕の中に縋りつく。
「今日だけは俺を一人にせんで・・・」
その腕でしっかり抱きしめられた。
「俺でいいの?」
「・・・あぁ・・・」
跡部から。
嫌いと言われたわけじゃない。いや、はっきりと好きだと言われた。
好きだから、抱けないと言われただけだ。
拒絶されたのは、肌を重ねることだけ。
触れたかった手を払いのけられ、ただほんのちょっとケジメを付けられただけ。
それが、こんなに自分を見失うほど動揺するなんて。
思いもしなかった。
胸の中に抱きしめられて、キスされた。慈郎とのキスが俺の初めてのキス。
全身から力が抜けて頭の中に血が巡っていかないみたい。
何度も繰り返すキスに心の中が空っぽになって、慈郎にしがみ付いていた。
ベッド導かれ、啄ばむような優しいキスを繰り返す。
慈郎の自分よりも温かい体温にくるまれて、じんわりと優しさが伝わって来た。
せめて今は何も考えたく無い。
この温かさをいつまでも感じていたい。
傷ついた心は我慢できない雫を落とす。
頬を伝う涙を慈郎は指でそっと拭ってくれた。
「忍足、今日はもう眠ったらいいよ。俺が傍にいてやるから」
「・・ジロー・・・・」
「この先は忍足が俺を好きになってくれてからな・・・何も言わ無くていいから、ゆっくりと眠りなよ」
慈郎は何も聞かないで、俺に微笑んでくれた。
その腕に縋って俺はゆっくりと目を閉じた。
気付かれないようにそっと手を引く。
間近な距離が・・・
ドキリとする瞬間が怖かった。
あのことがあってからも、跡部の仕草は何一つ変らなかった。
優しい顔で微笑む。
柔らかな声で囁く。
ほんの目の先に跡部はいる。
そして。
俺のことを『愛してる』と言う。
でも、俺はあの日から逃げている。
触れ合いそうな距離で、綺麗に動いている跡部の長い指。
もし、触れてしまったら。
おしまい。
途端に俺は地獄に落ちるだろう。
その手に抱きしめられたくて。
跡部の腕の中しか見えなくなる。
「どうした、忍足?次は移動教室だぞ」
「えっ、あ・・・」
跡部の言葉で我に帰る。
「あぁ・・・そうや・・・ね・・」
「どうかしたのか?」
「いや、ちょっとサボリたいというか、サボっちゃあかん?」
「だめだな」
たった一言。そう言った。
繋げる言葉がどうしても言えない。
跡部の後ろをトボトボと付いて歩く。
なんだか胃の中が熱くなって気持ちが悪い。
渡り廊下の向こうに見慣れた横顔を見つけた。
その影が俺達の方に向かってだんだん近づいて来る。
慈郎と岳人や。
二人の楽しそうな笑い声がはっきりと届いて来た。
思わず反射的に俯いてしまった。
「おう、跡部。次は移動教室か?」
「あぁ」
「俺達は次の時間は自習だからな。今、職員室にジローとプリント取りに行って来たとこ」
「そうだ、ちょうど良かった跡部。今日、俺、放課後に委員会があるから部活遅れるよ」
「あぁ、わかった。・・・でも今更だろ、お前。委員会に関係無くいつも遅れて来るじゃねえか、アーン」
口角を少し上げるいつもの仕草を見せ慈郎に答えている。
「そうだね、今更だった」
そう言いながら慈郎は笑って見せた。
慈郎の少し高い声が俺の名を呼んだ。
「忍足、どうかした?」
どうもしとらんで。と言おうとしたのに。口をパクパクするだけで、言葉が出てこない。
視線を上げるために、頭を持ち上げただけなのに。
途端に、目の前が真っ暗になった。
身体に力が入らない。
「忍足!!!」
意識がなくなる直前に、誰かの腕で抱きとめられたのがわかった。
「忍足、どうし・・・」
血の気の無い青い顔。触れた頬はまるで死んだ人のように体温が無い。
「ジロー、侑士どうしたんだよ」
慌てた表情(かお)で岳人が叫ぶように問う。
「顔色、真っ青だし、たぶん貧血おこしたんだよ」
「だいじょうぶなのかよ?」
「うん、暫く静かに寝かせてたら、落ち着くはずだよ」
「保健室連れて行くからな、跡部」
慈郎を制止する跡部の一言。
「俺が連れて行く」
「そうか」
慈郎の腕の中から忍足の身体を抱き上げると、跡部は保健室に向かう。
「そんなに好きな恋人なら、なんで抱いてやらねぇんだよ?」
向日には気づかれないように慈郎が囁いた。
背中から投げつけられた慈郎の氷の刃に、跡部は一瞬だけ足を止めたが振り向くこともせず忍足を連れて行った。
暗い闇の先に小さな光が見えたような気がした。
大きな羽音がバサっと聞こえた。
頬に触れる優しい感触に、意識の端が連れ戻される。
温かい、柔らかい。そして優しい。
「・・・ううん」
口の端から漏れた声に、自分で吃驚して目を開けた。
ほっとした優しい顔で見つめられてた。
「・・・あ・跡部。俺どうしたん?」
「貧血で倒れた。気分はどうだ?」
「また、やったんか。ごめん。もう大丈夫や」
「そうか。ジローが気付いたから、怪我はしなくてすんだ。会ったら礼言っとけ」
「あぁ」
倒れる時に感じた温かさは、慈郎だったのだ。
「ここには、跡部が連れて来てくれたん?」
「あぁ」
「すまんな、いつも迷惑掛けて・・・」
「謝る必要はねぇ。仕方がねえことだろ。それに迷惑なんて思ってねえ」
本当に優しく、心に浸み込む跡部の言葉。
でも、俺にはそれとは違って響いて来る。
・・・・・・跡部は俺の身体に触れて大丈夫だった?
そんな事させて本当にごめん。
溢れそうになった涙をどうにか誤魔化して、もう一度目を閉じた。
「忍足、もう大丈夫だな。監督に呼ばれているから、行って来る」
作品名:プラトン的愛の構造 前編 作家名:月下部レイ