プラトン的愛の構造 前編
「おん、本当にありがとな」
「あぁ、お前もゆっくり休んどけ」
跡部は授業をサボって俺に付いててくれたのだろう。
『ギィ・・・』
保健室のドアが閉まる湿った音に、目はもう見えない影を追った。
跡部にこんなに愛されている。
でも・・・
愛されていることが辛い。
跡部の愛が純粋であれば、あるほど。
自分が穢れていることに気付かされる。
息をするのが苦しい。跡部の傍にいるのが辛い。
ぼんやりと白い天井を見つめて、ため息を付く。
幸せなのに、幸せじゃない。
目を瞑ったら。
答えの無い方程式が浮かんで来て、押しつぶされそうになりそうなぐらいドンドン大きくなった。
「忍足、どう?まだ気分悪い?」
優しい瞳が俺を見つめていた。
気付かないうちに慈郎が様子を見に来てくれていた。
「ジロー」
「えっ、どうした」
堪えていた涙が急に溢れる。
「ごめんな」
慈郎はそう言う俺の髪の毛を撫でつけながら抱きお起し、しっかりと抱きしめてくれた。
ベットの脇に腰掛けて、背中をトントンと宥めるように擦る。
「泣きたい時は、泣いたほうがいいよ。我慢しないでいいから」
抱きしめられた身体が熱い。
肌に触れる指の先から、優しさが伝わって来る。
どんなに愛し合っていても、跡部とは分かち合えない感覚。
震える指先でしっかりと慈郎に縋る。
後ろめたい。当然のように湧き上がる感情さえも、触れ合いの温かさを止められない。
背中を擦っていた手が顎を引く。慈郎の唇が俺の嗚咽を塞ぐ。
その唇を何度も啄ばんだ。
親鳥からえさを与えられるひな鳥のように。
与えられないと、もう生きていけなくなっていた。
口付けはだんだん深く。激しいものへと変っていく。
絡めあった舌先が、離れられない。少しづつ。確実に。
好きになる。
「跡部、そんなとこで何やってんだよ。侑士寝てんのか?」
向日の元気な声がドアの向こうから、聞こえて来た。
離れた唇の間から、銀色の糸がポトリと音をたてるように流れていった。
少し開いたままのドアの前に人影があったのを、慈郎も俺も気付いていなかった。
見られた?跡部に。
慈郎の腕の中に縋るように抱かれていた、自分。
きっと、跡部にはわかった筈だ。
俺の穢れた心を。俺が何を望んでいるのかを。
「忍足」
慈郎の声に、はっとして我にかえった。
「俺が跡部に、言おうか」
「何を・・・」
震える声で尋ねる。
「跡部が今見たものは、偽物だって説明してくる」
慈郎がが何を考えているかわからなくて、じっと慈郎を見た。
「忍足が本当に好きなんは跡部だって。本当は跡部に抱きしめて・・・ほし・・・」
頭を横に振る。今更、何を跡部に言うというのか?
「跡部の好きは、そんな好きじゃない・・・もういいんや」
じっと見つめられて、ぎゅっと抱きしめられた。
慈郎はは自分が跡部の身代わりだと気付いているくせに。
それでも、優しい。
「俺でいいの?」
声にはならなかったが、慈郎のシャツを、皺になるくらいぎゅっと掴んだ。
・・・・・・優しいキスが何度も繰り返された。
何もかも忘れて、この時に身を任せたい。
俺を受け入れてくれるこの優しさの中に、たとえ片時だとしても身を置きたかった。
慈郎とのキスを確かに見たはずなのに、その後も跡部の態度は変らない。
優しい瞳で見つめられて、優しい言葉で包まれる。
それが余計に罪悪感を助長する。
その反面、怒りもしない嫉妬する気配の無い跡部の様子にイラつく。
相、対峙する感情に自分で自分がわからなくなる。
息苦しいような、揺らめく蜃気楼のような現実感の無い中で身もだえしていた。
「身体のほうは、もういいのか?」
「大丈夫や」
それからも。
俺の身体のことは心配してくれる。でも慈郎との事は決して聞かない。
跡部にとってはそんなことは、どうでもいいこと、なんやろか?
「無理はするな。この時期の体調管理は難しいからな」
そう言って、すれ違いざまに俺の肩にトンと触れた跡部の手を思わず払いのけた。
びっくりした顔で跡部は俺を見た。
「ごめん」他に思いつく言葉が無くて、ただ謝った。
いつの間にか、跡部の手が自分に触れるのが怖くなっていた。
あれほど、跡部から触れて欲しかったのに。
すぐにいつもの跡部に戻って、微笑んでくれた。
俺は引き攣った微笑みしか返せない。
いつ壊れても仕方ない不安定な日々が流れていく。
「先に行くぞ。今日も暑いからな。十分水分補給してからコートに出て来いよ」
そんな言葉を残して、跡部は部室からコートに出て行った。
何かが違ってしまった。
その後ろ姿を見送る。
あの日さえ無ければ、跡部とは普通の恋人として日々を過ごせたのだろうか?
悔恨が心の中を渦巻く。自分が身体の関係さえ求めなければ、幸せは続いていたはずなのに。
どこか、掛け違えたボタンのように、心地の悪さだけが残った。
着替えるために手に持っていたジャージの上着をドアに向かって投げつけた。
ちょうどその時。
『バタン』という言う音と同時に部室のドアが開く。
「忍足」
俺が投げつけたジャージを足元から拾うと、そのまま俺の所へやって来た。
また、慈郎の温かい胸に飛び込みたくなった。
いつからこんなに女々しくなったんや、俺。
自分に嫌気がさして、どうにも制御できない感情が身体の中をグルグルと巡る。
俺が手を伸ばす前に、ぎゅっと抱きしめられた。
「忍足が欲しい」
耳元で囁かれた少し上擦った高い声色に身体が痺れる。
指の先までが熱を持つ。
「ジロー・・・」
「俺のこと、少しでも好きになってくれたの?」
「・・・・・嫌いな奴とキスなんかできへんやろ・・・」
「・・・そうか。もうみんなコートに出ちゃったね」
何かを思うように、慈郎は視線を落とした。
『ガチャリ』と乾いた音がした。
俺をベンチに座らせると、慈郎はドアの所まで行き鍵を掛けた。
俺の傍らまで戻って来ると、隣に座る。
交わす言葉は何も無い。緊張して、口の中がカラカラ。
俺の肩を抱いたまま、静かな時だけが流れて行く。
「・・・忍足」
口にする言葉も無くて、ただ慈郎のブレザーをギュッと握り締めた。
その手の上から、小さいがしっかりした慈郎の手が重なる。
とても温かくて、そして優しい。
もう片方の手が俺の髪を梳く。その手が頬を伝って降りて来て唇に触れた。
初めてでは無いキスもドキリとした。
だらしなく力の抜けた唇の隙間から、慈郎の舌が入って来た。
「んんっ・・・」
口内のあらゆる所を刺激され、口の端から思わず吐息が漏れる。
首筋に吸いつく慈郎の唇。その唇が俺の身体に紅い花を咲かせていく。
次々と所有の証が残される。
捲られたシャツの下の白い肌が赤く染まり、慈郎が触れている部分が甘い熱を持つ。
「ああ、・・・あぁ」
徐々に甘い熱が痺れに変わる。
作品名:プラトン的愛の構造 前編 作家名:月下部レイ