終壊
見ず知らずの男だったが、いつも通り俺は腕を振るおうとする。だが何か特別な格闘技でもやっているのか、腕が痺れて力が入らない。先月サイモンに喧嘩を取り押さえられた時みたいに。吃驚するほどに身体の自由を奪われた俺はずるずると引きずられ、衆人環視の中、車に押し込まれた。
「なにしやがる!!」
これはもう警察に通報しても良いレベルだろう。いい大人が15歳の高校生に暴行したんだから。だがふと、俺が警察に保護されたら色々法律のラインを踏んでいる臨也に迷惑がかかるんじゃと思ったが、そのままの勢いで携帯を出そうとした俺を、男は先ほどの力とは打って変わって慌てたような声を出した。
「すんません、俺もよく判らんのです」
「はあ?」
申し訳なさそうに頭を下げる男に訳が判らない。冷静になって車をよく見ると、どう見ても一般人が乗る普通乗用車じゃない。よく臨也と得意先に出る時に先方が用意するものに似ている。
どういう事だと腕を振り払って睨みつけた。
「羽島さんが貴方を連れて来い、と……」
「なんであいつが。芸能人は一般人を拉致しても良いなんて法律知らねえぞ!」
「いやあその、ただ事ではなさそうでしたし……って、あ?」
俺が乗っている後部座席の反対側が開く。そこからぬっと現れたのは、名前の通り幽霊みたいに佇む色白の美少年。無表情のクールキャラで通っているらしいその顔を驚きと焦りの色で埋めている。
だが相手が世界一の美人だったとしても俺は殴りつけていただろう。事実、その顔を見て嫌悪感を剥き出しにした俺は羽島の胸倉を掴んだ。此処でやり返したら絶対に俺の方が悪者になるなんて事は考えなかった。とりあえずこの白い肌を殴りつけなきゃ気がすまない。
「なにしやがんだてめえ、餓鬼だったら何しても良いって勘違いしてんじゃねーだろうな」
不良だったら竦み上がる。それぐらいの威圧感で凄む俺に、年下の羽島は顔色を変えない。むしろ、すっと色が戻ってきた。喉から零れた声は予想よりも低く、震えているが、ぞっとする程に無機質だった。
「ひとつ、だけ……」
「ああ?」
「質問に答えて欲しいんです」
天下のアイドルに質問される為に俺は連れてこられたのか? 臨也と過ごせる貴重な休日の約束に遅れそうになってまで?
冗談じゃない、俺にとっては有名人100人とお近づきになるよりも、臨也に構って貰える事の方が名誉だ。いきなり他人の自由を奪う非常識な事をしておいて謝りもしないなんて、近頃の子供は皆こうなのか。
「臨也が待ってるんだ……とっとと退け、腹が立ってんだよ俺は」
「……?」
「早くしろ、その商品潰すぞ! 俺は殴りてえ訳じゃねえんだよ」
売り物と揶揄した顔を睨みながら俺は気が立っている為に、細い首に指を絡める。一種の脅しだったんだが、羽島はすっと酸素を吸って、俺の眼をまっすぐに見た。
「貴方の名前は、……『平和島静雄』……ですか……?」
「……え?」
なんで、芸能人なんかが俺の名前を知ってるんだ?
この近辺の学生なら話は別だが、有名人にまで名が知られているなんて有り得ない。俳優って事は余り学校にも行っていないんじゃないのか。それは判らないが、混乱している俺の表情から正解だと読み取った羽島はぽつりと「やっぱり」と囁き、自分の首を掴んでいる俺の腕を握った。冷たい手だった。
「そう……金髪だったけど、顔は全然変わってないし……短気なとこも、その声も……。“暴力が嫌い”なところも」
「なっ……」
なんで知っている、と言いそうになった言葉を飲み込む。俺はこいつを知っている。こいつの手の感触を知っている。こいつの声も、表情も、「何処かで」知っている。
「あ……あ……」
怯えにも似た表情で、無様な声を漏らす俺に羽島は詰め寄る。いや違う、こいつは羽島幽平なんて名前じゃない。
目の前の「 」は、ゆっくりと整った唇で残酷な名前を囀った。
「兄さん、だよね」
「……っ!」
俺の中で何かが弾ける音が聞こえた。
小学生の時に生き別れ、一度は思い出し、そして再び封印した、たった一人の肉親。
「かすか……」
「やっと……やっと会えた」
羽島幽平こと、平和島幽。俺の実の弟。もう居ないと思っていた家族。
余りに強い衝撃に俺は力なく指を外す。眼に怯えを宿し、恐怖に身体を震えさせる俺に対し幽はどう解釈したのか、細い両腕を俺の背に回し抱き締める。
懐かしい温もりは、
「生きてたんだね、兄さん」
俺の精神を破壊した。
「う……うあ……」
「兄さん?」
「うああああああ!!」
気付けば俺は頭を抱えて絶叫していた。それにびくっと幽は身を引き、俺の背後でまさかの兄弟の再会を非現実的な眼で見ていた男も驚きを隠さない。
駄目だ、侵食される。蝕まれる。俺の世界が、壊れる。踏み荒らされる。犯される。亀裂が走る。雨、雷雨、豪雨。入れてはいけない。人格否定。釘。刃。焼く。
「っ……どう、したの? 兄さん」
焦点の合わない血走った眼。俺にとっての存在の否定。駄目だ、眼の前のこいつは。受け入れられない。認められない。信じたら、いけない。
既に俺にとって平和島幽という名前は実弟という懐かしい響きではなく、平和島静雄を覆す呪われた音。
「呼ぶなあっ、言うな、俺を、俺を、呼ぶな、俺は、俺は、兄じゃない!!」
「兄さん……?」
「違う。お前は違うっ。俺の弟なんか、違う! 俺に弟なんて居ない!! 居ない居ない、知らない、違うっ!」
片手で眼の辺りを押さえ、空いた左手で眼の前の弟を指差した。洪水のようになだれ込む情報量。俺の理性を焼き殺し、細められた瞳は苦痛しか宿さない。心臓の音がよく聴こえる。誰かが囁きかける。とてもとても甘く優しい声で。
「だって、だって、居ない!! 居ない、存在しない。誰も、違う。違う違う、居ないって、だって、だって、」
俺の脳髄を支配したのは、あの男。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「――臨也がそう言った!!」
一気に眼の前の少年への恐怖心を募らせた俺は狂ったように叫びながら、助手席に向かって拳を突き出す。撓んだそれに息を漏らす幽。痛みが左手を貫き、その感覚にほんの僅か、糸みたいに細いが理性が戻る。左手に残る臨也への忠誠と信頼、感情、本能。幽は俺を乱す。支配する。幽と接触するという事は、臨也に捨てられるという事。捻じ込まれた擦り込みは否応が無しに俺を絶望に突き落とし、俺と臨也の世界の崩壊の音を奏でる。欠けそうになるくらいに歯を噛み締め、今や人間味を帯びた幽の眼を一瞥すると、糸はぷっつんと切れた。
「来るな、来るなっ……いやだああああ!!」
数年ぶりに再会した弟に全力で背を向け、男を突き飛ばした。ノブを押すのももどかしく、今まで生きて来た中で最も強くドアを蹴り飛ばした。俺の全力を受けたドアは見事に弾け飛び、周囲が唖然と口を開ける。それにひっと息を呑む俺は門田の姿を見つけるがすぐに逃げ出す。反対側から出て来た幽の声が、何時までも追いかけてくるようだった。
「兄さん! 待って兄貴! 兄貴!」