終壊
微睡む俺の意識を破ったのは電話の音だった。浅い眠りを妨害され眼を開ける。外を見れば既に真っ暗で、寝る前には居た臨也の温もりも傍に無い。一気に不安になって上半身を勢いよく起こすと、丁度紅茶を持って部屋を横切る臨也を見つけて安堵した。
「起きちゃった?」
「ん……、電話鳴ってる」
結局二人で出掛ける約束はうやむやになってしまったが、別に今日しか機会が無い訳じゃない。臨也は手が離せないらしいので、夜の池袋を見やりながらデスクの上の電話に向かって歩いた。
「はい、折原です」
それにしても事務所に電話なんか珍しいな。大体ある程度交流を持つようになると直接携帯にかけてくることが多いのに。そう思いながら目元を擦り寝惚けた声を極力殺して電話口に出る。相手は落ち着き払った男の声だった。
『折原臨也さんの事務所ですか?』
「そうですけど」
『折原さんはお見えになりますか?』
「居ますけど……。少々お待ち下さい」
保留ボタンを押して臨也に視線を送る。何やら資料らしきファイルを探していたらしい臨也はそれに気付くと、まるで待っていたとばかりに深く笑みを作って近付いてきた。あ、しまった、相手の名前聞くの忘れた。俺は電話対応が苦手なんだよな、何回やっても慣れない。
「誰?」
「ごめん、聞き忘れた。臨也の事務所かって聞いてきた。30代くらいの男。四木さんの声じゃない」
「ふうん?」
俺から受話器を受け取った臨也は機嫌良い声で「大変お待たせ致しました、折原です」と応じる。待たせたといっても10秒くらいなのに。臨也曰く例え1秒だろうがこうやって応えるのがマナーらしいけど俺には判らない。
寝起きの頭を起こそうと俺も何か飲もうかなと考えていると、臨也はまるで紀田を初めて此処に連れてきた時みたいに嬉しそうな声を出した。
「ええ、良いですよ。……はい。はい、確かに。……、では代わって頂けますか? 何分、本人の口から聞きたいですから」
言った傍から臨也は受話器を下げる。もう切るのか? と首を傾げようになったが、何故か臨也はスピーカーのボタンを押した。視線が俺と絡み合う。俺にも聞けって事だろうか。素直に近付いた事を後悔した。電話口から聴こえて来たくぐもった幼い声に聞き覚えがあったからだ。
『もしもし、……イザヤさんですか?』
「え、……っ!?」
口を押さえて数歩後ずさる。青ざめた俺の顔を見ながら臨也は、スピーカーを使っていると悟らせないように普段通りの声を装った。
「そうですけど、どうして君のような有名人が僕に連絡なんかを? 年若くして入った業界に嫌気が差したかな?」
「い、い、や、なんでっ」
裏返りながらも小声で動揺を発する。相手の声は電話越しでもよく判る弟のもの。人形のような抑揚の無い声も戻っている。
何で此処に連絡して来たんだ、俺が此処に居る事を知っているのか? だとしたらどうして。
『聞きたい事があるんです』
「僕に答えられる事ならなんでもどうぞ。ただしある程度、線を越すような質問にはお代を頂きますが」
『……平和島静雄さんを知っていますか?』
なんてストレートな聞き方だ。我が弟ながら恐ろしい。臨也がにやつきながら俺に視線を寄越す。必死に首を横に振った。感情が途切れて上手く言葉を繋げない。臨也は顔を受話器に戻すとけろっととんでも無い事を口にした。
「本人が知らないって言ってますけど?」
「なっ……!」
『……』
思考が止まる。信じられない想いで。
『そこに……兄が居るんですか?』
「へえ、君は弟なんだ? 残念だけど静雄くんは君の事なんとも思ってないよ」
『兄に代わってください。今すぐに』
「それは出来ない相談だね。幾ら積まれても」
臨也はどっかりと机に腰掛ける。恐々とした眼で受話器を凝視する俺を一瞥すると淀みなく言葉を紡いだ。
「君も直接見ただろうけど、シズちゃんは既に君が知っている平和島静雄じゃあないんだ。君を見て怯えただろう? 無理に会ったってお互い傷付くだけさ。言っとくけどこれはシズちゃんの意思だし、彼自身が君の事を拒んでいる。それは判るでしょ? わざわざ無価値で無意義な無駄な時間を過ごすのは人生の浪費だよ」
『意味が無いかどうかは僕が決めます。貴方は俺と兄と話させたくないだけじゃないですか?』
子供とは思えない幽の声に俺は身震いした。大人顔負けの緊迫感、何故そんなに俺を欲しがる? 俺ははっきりとお前を拒絶したのに。何で。
見知らぬものに追われているような感覚が恐ろしく、臨也の腕を掴んだ。心細げに見上げる俺に軽く口付けると、そのままの体勢で臨也は言う。一切の容赦の無い声で。
「はははっ、勿論、話させたくないよ。だってそうすると俺のシズちゃんが君によって傷付く事になるからね」
向こうで幽が息を呑む音が聞こえた。沈黙に畳みかけるのは、臨也。
「君は今までもシズちゃん無しで生きてこれたじゃないか。もう十分だろう? お互い大きくなったんだ。シズちゃんも君無しで立派に成長しているよ。遠く離れていた人間に対して今更兄弟としての情を押しつけるなんてひどいなあ。それじゃまるで借金苦で子供を捨てて逃げた親が、子供が金持ちになった途端に戻ってくるようなものじゃないか。そんな事しなくたって、シズちゃんは君の事を忘れて幸せに生きているよ」
臨也が俺に視線を落としたので無言で頷く。臨也が幽に対し毒を吐く事について何の感情も沸いて来なかった。強いて言うなら、ああ、臨也はこんなに俺の事大事に思ってくれてるんだな、って。皮肉にも臨也への感情を強める俺は甘えるように頬を擦り寄せた。
『……違う』
直りかけていた機嫌が一気に損ねられる。電話口の幽の声は震えていたが、今まで以上にはっきりとしていた。何処か遠い場所ではなく、眼の前で話しているかのように。それに俺は眼を、耳を奪われた。
『兄さんは自分の意思で俺を忘れて……幸せになったんじゃない』
「……へえ、根拠は?」
臨也が表情を歪ませた。これは余り面白く思っていない証拠だ。実際眼が全く笑っていない。
『貴方がそうさせたんでしょう、イザヤさん』
幽の声に、はったりや鎌かけは感じられない。本心からそう思っている声だ。無意味にまっすぐで正直な所は変わっていないな……。なんて考えた所で、そう考えた自分に驚いた。変わっていない? 俺は幽を知らないはずなのに。そんな事思うなんて間違ってる。俺は一体どうしたんだ。
『だって兄さんは……俺を攻撃しなかった。俺を壊そうとはしなかった。そして……こうも言った』
『“だってイザヤがそう言ったから”』
確かに俺はそう言った、だから何だという。
『貴方が兄を変えたんです。兄は人間に怯える人じゃ無かった。誰よりも人を尊重出来る優しい人だった。それなのに……兄さんはまるで誰かの言いつけを守るように俺から逃げた。“イザヤがそう言ったから”』
俺は何時の間にか受話器に眼が釘付けになっていた。幽の言葉が俺の鼓膜を、脳を犯して這いずり回る。何だ? こいつは、俺の弟は何が言いたいんだ。
『貴方は兄貴にとって良くない』