終壊
決定打だった。幽の声に迷いは無い。まるで決別を切り出すかのような強い言霊。俺は隣で臨也がゆるりと動いた事にも気付かないくらい動揺していた。今までだったら、俺や臨也の邪魔をする奴は誰だって怒りを露にした俺が、気圧された。言葉を忘れた。
『俺じゃなくて、貴方が誰よりも兄貴を傷付ける。兄貴はそれに気付いていないだけだ』
初めて臨也以外に恐怖を感じた。
『俺に兄貴を返してください』
「……喋らせすぎたな」
見上げればそこに鉄壁の無表情を晒す臨也が居て、吐き捨てるようにそう言った。幽にとってアドバンテージとなったのは、この会話を俺が聞いていると知らなかった事だ。それが強気に出られる要因となり、何時の間にか臨也の考えを狂わせ、幽に一本取られた。事実、俺の頭の中は幽で一杯だったから。
「残念だけどこれ以上君がシズちゃんに介入するのは俺の計画には入っていないからこの辺で失礼するよ」
『っ待ってください、あに』
臨也は最初からそうするべきだったという顔で一方的に電話を切った。そのまま足早に何処かへ行くかと思えば電話線を抜く。その動作を恐ろしい眼で見ている俺の傍に寄ると、くしゃりと髪を撫でられる。不安が倍増した。
「大丈夫? シズちゃん」
今日何回も聞いた言葉が、俺の中には入って来なかった。
(……俺は、……間違っているのか?)
俺は気付いていない、だけ? 俺を傷付けているのは臨也? そんなはずない。そんなわけない。違う、あいつの言う事は信じちゃいけない。返してくれって、何時俺はお前のものになったんだ。俺は、俺は臨也のもので、“貴方が兄を変えたんです”いやそんなんじゃない、これが俺であって“兄貴は気付いていないだけ”違う、知ってる。これが、俺だ。俺なんだ。だって、だって、……あれ? いざやが、そう、いった。あいつの言う通り。
「シズちゃん?」
真っ青な顔で俯く俺は臨也の機嫌が極度に悪い事に気付けなかった。俺の首を絞めるかのように伸ばされた手を俺は反射的に取る。驚いたような臨也を見上げ、弱りきった眼を揺らした。
「お……俺、臨也のもの。……間違って、ない。違うのはあいつ。俺は知ってる、ちゃんと知ってる。俺の絶対は臨也だって。ずっと一緒だって。ち、違う、のか?」
俺にとっては1+1は2じゃないと言われたぐらいに、当たり前を覆されたような気分だ。正常な機能で動いていない俺を見た臨也はすっと怒りを鎮め、抱き締めてくれる。俺は動揺していた。その証拠に、普段の俺だったら気付けた。臨也も微かに震えているって事に。
「シズちゃんは俺が守ってあげる。誰にも傷付けさせない」
吹き込まれる言葉。一般的な意味で正気を取り戻しかけていた俺は、他人のようにその台詞を分析し、眼を見開く。その言葉の裏には「俺以外が君を傷付けるなんて赦さない」「君を傷付けて良いのは俺だけ」という意味を持っている。悟ってしまった。気付きたくなかった。俺の心に影を落とす張本人が臨也だって。
正しいのは俺でもない、臨也でもない。でも幽が正しいのかも判らない。俺は、やっぱり間違っているのだろうか。
「……」
腕の中の俺が一切の反応を返さない。臨也が訝しげに俺の顔を覗き込み、眉を寄せる。愁眉というよりも不信そうな顔。俺の唇が戦慄く。何か、何か言わないと。何が正しいのか俺には判らないが、これだけは間違っていない。俺は臨也無しじゃ生きられない事、臨也に捨てられる事が俺の精神の死である事。
「い、ざ」
「仕事、しなきゃね」
畳み掛けられた台詞に身が竦み上がる。立った臨也がほんの僅かに視線を俺に落とした。軽蔑、いや、無関心? どうでも良い? そんな感情が込められている事を真っ白になった頭で理解する。臨也が俺を見ていない。
「なんっ」
「俺だって暇じゃないんだよ」
今日だって合い間の時間に出掛ける予定だったんだ。それを潰したのは他でもない俺。臨也にとっては無駄以外の何者でもない空白の時間だったんだろう。でも俺にとっては人生の方向が変わったかもしれない時間だったのに。臨也は、例えどんな事でも、自分以外で俺の心が揺れるのは気に入らないというのか。
「……」
言葉を失くし座り込む俺を無視して臨也がデスクに座る。完全に接触を遮断されたように複数台のパソコンを立ち上げ、ファイリングしてあった資料に視線を落とし始める。俺を居ないものとして意識すら向けてこない臨也に、心と神経が侵される。俺は今、臨也の世界に居ない。
「ぅ……」
俺を世界に入れてくれない。こんな苦痛、他にあるだろうか。泣き叫びたい気持ちをぐっと押し込み、臨也の機嫌が直るまで待とうと、そっと立ち上がって事務所を後にする。扉を閉める時にちらりと中を覗き込むが、臨也は視界にすら俺を侵入させない。睫毛の手前まで来た涙を瞬きで誤魔化し、ゆっくりと扉を閉めた。
俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。今まで信じて来たものを本人にすら曖昧な形で違うと言われたような感覚、じゃあ俺は何を信じれば良いんだ。幽は俺に何がしたかったんだ。纏まらない考えの所為で普段以上に不明瞭な思考回路。可笑しい、今までだったら俺はすぐにでも臨也に縋り付いて慰めて貰っていたというのに。なのに、臨也に得体のしれない恐怖のようなものを感じていた。臨也は俺に、何をして欲しいっていうんだ。
ベッドに潜り込んでも頭が冴えてて眠れない。俺はどうすれば良い。どうしたら臨也に赦して貰える?
(俺の弟ってだけで俺以上に理不尽な暴力に見舞われた)
(その救急箱、幾つ目だ?)
(離れて欲しい。もう俺じゃお前を守りきれない)
『別に』(無理しなくて、良いのに)
掻き乱された思考は臨也ではなく幽にシフトが向けられた。遠い過去に、そんな事を思った気がしたんだ。幽は俺の何を知っているんだ、と考えた時に、じゃあ俺は幽の何を知っているんだろうと、じっと眼を閉じて考えてみる。
髪が闇色だった頃から、俺たち兄弟は周りから顔以外は「似てない」と言われてきた。幼少から割と背が高く運動好きだったからそれなりに筋肉もついていた俺と違い、幽は細面でもやしのように白く線が細かった。感情がストレートに出る俺と、極めて冷静に物事を判断する幽。似ていたのは好みくらいだった。俺も幽も甘い物が好きで、小さな頃はよく取り合って喧嘩もした。それだけ。
「……それだけ」
口に出して、ぽつりと。今思えば、俺は幽の事をそれほど意識した事が無かったのだろうか? 特に目ぼしい事を覚えていない。例えば家族でキャンプに行って遊んだ、だとか、毎日一緒に登校して帰りには寄り道した、とか。これほどまで覚えていないと俺にとって幽は重要な人物じゃなかったという事だろう。
幽が口数の少ない奴だったという事も大きい。印象に残るほど、会話した事が無いんだろうか。というより幽と喋った記憶がない。
「……?」
じゃあ、さっき、思ったのは誰の何に対してだ? 俺は誰に喋ったんだ? 俺の何に対して、そいつは「別に」と答えたんだ?
『大丈夫。 ないよ』