そのための場所
「あの後、ウィーン以外の場所でなら買い物に付き合ってくれるって約束したの」
「へー」
どんなやり取りがあったのかは、追求しない方がよさそうだとフェリは思う。
「水着なら、俺の方が上手に見立てられると思うんだけどな」
フェリが言うと、エリザは両拳を口に当てて楽しそうな笑い声をあげた。
「あの人を更衣室の前まで引っ張って行って、『この水着はどう? 似合う?』ってやりたかったの!」
さぞかし照れて嫌がるだろう。と、想像するだけで気の毒になってしまう。でも、堅物を困らせてみたいというエリザの気持ちも判ってしまうフェリだった。
ふと、昔彼らと買い物に行った時の事を思い出す。慣れない子供服の店で戸惑っていたローデと、彼の腕をとって商品を選んでいたエリザ、そして……。
笑うのが誰よりへたくそだった、黒衣の少年。
家族のように仲良く過ごしたささやかな思い出が、フェリの脳裏によみがえった。
黙り込んでしまったフェリの顔を覗き込んだエリザに、「どうしたの?」と声をかけられて我に返る。
エリザの笑顔が、幸せそうで。さっきまで彼の喜びでもあった表情が、胸に刺さった。落ち込んだ事を悟られないよう、フェリは大げさなくらい微笑んで見せる。
「なんでもないよ。ねえ、姉さんの水着姿、俺にも見せてね。
ローデさんの次でいいからさぁ」
「こら」と苦笑して、エリザの指が彼の鼻先をつまんだ。その指先が堅くなっている事に気付いたフェリは、そっと彼女の掌にふれる。
「ピアノの練習、またはじめたの?」
驚いたように目を見開いた表情が、彼の勘が当たったと告げている。エリザはいつも、本当に正直だ。
「アナタ、鋭いわね本当に。あの人には内緒よ! いつの間にか上達した、って驚かせるんだから」
「わかった」
彼に判る事が、ローデにばれてないはずはないと思うフェリ。でもきっと何も言わず、エリザの上達をそっと待っているんだろう。
今はそれぞれの国で暮らし、別居結婚状態が長いのに。変らない仲の良さが、眩しく感じられる。
「姉さん、幸せ?」
問いかけるフェリの笑顔に、微妙な陰りを見つけてしまったエリザ。弟のように可愛がっている彼の頬を、優しく撫でて答える。
「もちろんよ」
さっきまで、春の陽だまりのようだったのに。
幸せそうなのは、彼の方だと思っていたのに。
「そっか。じゃ、俺も幸せだ」
彼女が欲したのとは、ニュアンスの違う返事だった。だが、それを追求するには、5月のオープンカフェは明るすぎる。
「アナタがくれた幸せよ」そう言うと、フェリはふにゃりと笑う。
嬉しそうなのに、泣きだしそうにも見えるのは、何故?
どう問いかけようかと悩むエリザに、フェリは「ほら、ローデさんが出てきたよ」と先に声をかける。
振り返ると、スカラ座正面玄関に貴族然とした青年が立っている。優雅に左右を見回すと、確信をもった表情で歩き始めた。
……待っているエリザに、背を向けて。フェリが「あいかわらずだね」とくすくす笑う。
「もう! だから動かないで待ってなさいって言ったのに!」
ぱっと立ちあがったエリザは、夫の背中にむかって駆けだす。このためのパンツスーツ? とフェリが感心するほど、思い切った動きだった。
追いかけて、声をかけて。振り返ったローデが何か言っている。それにこたえるエリザの笑顔の華やかさは、一年で一番美しいと言われる5月の日差しにも負けていない。
振り返った二人が、彼に手を振る。笑顔で返しながら、(お願い。そのまま行っちゃって)と心で願ってしまうフェリ。
うらやましくて、切なくて。何か言われたら泣いてしまいそうだった。
ねえ、君。聞いてよ。
ボク今日、エリザ姉さんに喜んでもらえたんだ。幸せをありがとう、って。
ねえ。
あの役立たずだったボクが、そんな風に言ってもらえたんだ。
今なら。
君にもあんな風に微笑んでもらう事が、できるかなぁ。
さすがに、一緒にローマ帝国になるのは難しいと思うけど。
あの頃、ボクは君があんなに明るく笑うのを、一度も見てないんだ。
ねえ、君。
君の幸せな笑顔が……見たかったよ。
固く組んだ両手の上に、そっと顔を伏せる。
彼の願いは言葉にならず、祈りのかけらは空気に溶けてしまったかもしれない。