溺れる者たち
「ばっか、濡れるって、やめろって!」
三郎は、バスルームで行為をするのが好きだった。俺は疲れるし狭いし、なんとなく恥ずかしいしで、よく抵抗をした。三郎は嫌がられるのも好きで、つまり、俺の抵抗は逆効果だった。それで、バスルームではよく喧嘩をした。けれど、たいていは俺が押し切られた。俺には持久力が足りない。
「せっかく寝心地いいベッドがあるのに、俺ら何やってんの」
せめてもの恨み言を言ってみても、
「両方使えばいいじゃん」
と、三郎は悪びれないのだった。こういうときの彼は、普段の大人ぶった態度はどこへやら、悪戯を思いついた悪ガキみたいだった。楽しそうに俺から濡れた服を剥ぎ取る三郎の顔を見て、結局、俺はあきらめた。
大抵、するのは三郎の家だった。彼が一人で暮らす、通学のために借りた、学生向けのアパート。けれども三郎は、ずいぶんマメに実家と連絡を取り合っていた。彼を外見の派手さだけで判断する奴が知ったら、多分驚いたと思う。彼は、とてもよく父親を気遣う息子だった。一人っ子なんだよね、と三郎は言った。
「父ひとり、子ひとりなの」ふと思いついたような言い方だった。「俺の家」
彼がそんな言い方をする時は、口調とは裏腹に、大切な話であることが多かった。三郎はどんなことでも、たいしたことがないように振舞いたがるのだ。傷つきやすくて、それを外に出すことにも傷つくような、敏感な男。
俺は黙って、彼の隣に座っていた。三郎の頬に、暮れかけの夕日が、暗い橙色に滲んでいるのが寂しくて、綺麗だった。三郎は窓の外を見つめながら、淡々と続けた。
「母親がさあ、男作って出てったの。夕方だった。今ぐらいの時間。俺、小学生な。ラップで蓋したアジの開きと、鍋の中の味噌汁を置いて。いつもみたいに夕飯を作って、それから母親は、汚れちゃったから、って着替えをしたんだ。きれいなワンピースだった。俺の頭を撫でたりなんかして、ちょっと出かけてくるわ、って言った。すぐ帰ってくるわねって。あー嘘だな、って思ったよ。それから一度も会ってない。
言っとくけど、トラウマとかって話じゃないぞ。正直、そうだろうなって気はしてたし。離婚秒読みって感じの家だったからな。たまたま、それがあの日の夕方に起こったってだけ。
母親は俺に良く似てた。そう言われるから、そうなんだろう。俺、小さい頃、母親のワンピースを着てみたことがあるんだ。はは、引くだろ。ぜんぜん似合ってなかった。似てるっていう話なのに、なんでって思ったな。母親は、どんな顔をしてたんだろう。どんな顔して俺の頭を撫でたんだろう。何度も思い出そうとしたけど、なんでか、いつも駄目なんだ。それで、皆が似てるっていう、俺と似た顔を想像するんだ。写真でも見ればいいんだろうな。でも俺が気にしてるってわかったら、親父が泣くからさ。
夢の中ではさ、何度も母親が出て行く。ワンピースを着て。いつもまとめてた、長い髪を下ろして。その人が振り向くと、俺の顔をしてる。玄関においていかれて、間抜け面でそれを見送る子供も、俺の顔をしてる。俺は、俺に置いて行かれてるんだ。俺は、俺に行かないでほしい、って泣く。だけど俺は、振り返らないでいっちまう。おかしいだろ。そんで、俺、馬鹿じゃないか、って思って目が覚めるんだけど」
俺は三郎の肩に手をかけた。そしてそのまま、ぎゅっと彼を抱きしめた。
「なに?」
三郎が、喉をふるわせるように笑った。
「おかしくない」
「兵助」
「馬鹿でもない」
ぽつぽつと、呟くように俺は言った。気のきいた台詞のひとつも出てこない自分が嫌になったけど、俺は、いつもこんな風にしか出来ない。それに、と俺は三郎の肩に頬をおしつけた。
「俺、いなくならないよ」
三郎は吸っていた煙草を唇から離した。困ったみたいに言う。
「わかってる」
「俺、本気で言ってるからな」
三郎はしばらく黙っていた。そして、煙草を灰皿にすてると、俺のことを抱き返してきた。俺たちはそのまま、部屋の中が真っ暗になるまで抱き合っていた。
三郎の腕は、軽妙なふりをしようとする言葉を裏切って、どこか、すがるように必死だった。俺は、そのしぐさに弱かった。どんなに口で文句を言っても、結局、なんでもしてやりたくなってしまう。
三郎はたまに、俺を狭い場所に押し込んで、閉じ込めるみたいに抱きしめてきた。風呂でよくやりたがるのも、多分同じ理由なんだろう。絶対的に、逃げ場なく、相手と密着したいってこと。それがわかるから、結局いつも、拒めなくなるのだ。
もっとも、その”狭さ”には多少バリエーションがあって、ある時は風呂だったし、ある時は押し入れ、ある時は、小さなビニールのプールになったりした。
三郎が、急に思いついて買ってきたのだ。部屋で待っていた俺は、ぽかんとして彼の嬉々とした顔を見つめた。
「なにこれ、なにすんの」
「なにって、入るんだよ」
「いや入るってか、これ子供用だろ。俺らふたりで入ったらぎっちぎちじゃん」
「平気平気」
何が平気なんだか、三郎はいやに上機嫌に、そのおもちゃみたいなプールに水を張った。
幼稚園児くらいの子供用プールは本当に小さくて、いっぱいに水を張っても、十九になる男ふたりの足首程度しかない。どんなうっかりがあっても溺れようがなかった。そこに、三郎は俺を押し倒した。
「うわっ!」
俺は服のまんまで、三郎だって勿論そうで、フローリングの床はすぐに水浸しになった。
「おっま、何がしたいわけ」
俺は罵りながら、彼の髪を引っ張った。三郎は俺の肩を水浸しにして抱きしめながら、
「そりゃ、あれだろ。水もしたたる兵助君が見たくって?」
「ばぁーか」
三郎は罵られても本望というように、可笑しそうに笑った。
夏だった。そういえば、出会ってからどれくらいが経ったんだろう、と俺は思った。ずっとこうしてきた気がする。もしかしたら、三郎がこんな小さなプールで遊べたくらい、幼い頃からずっと。
小さなプールいっぱいに張られた水はなまぬるくて、俺と三郎の着ていたシャツを体じゅうに張り付かせた。まるで二番目の皮膚みたいだった。俺たちは、それを擦り合わせて抱き合った。濡れた服同士がくっついて、このままずっと、離れないでいられるんじゃないかと思った。
「どうする兵助、離れないよ」
「離れないか」
「離れないな」
俺たちは手を握り合った。三郎が耳元で、くすくす笑った。くすぐったかった。
水面に、プリズムのような光が舞っていた。俺たちは、むさぼるようにキスをした。口に入る水さえ甘かった。