揺り篭 第一部
ep.4
「聞いてるのかい!?」
なにか酷い破壊音がしたけれど気にせず、テーブルに叩き付けた拳を軸にテーブル越し身を乗り出して叫んだら、アーサーはまるで目が醒めたように翆の双眸を瞬かせてこちらを見た。びっくりしすぎて声が出ないという風体だ。
「え、あ、すまない、アル…」
ほんの数秒前まではちゃんと返事も返ってきてたし確かに会話が成立してた。
最初は目を開けたままで寝ないでくれよなんて冗談も言えた。
「君、やっぱりどっか悪いんじゃないかい?」
ふと目を離すとこうしてぼんやりと心を飛ばしてしまうことは今までだってあったけれど、最近は目を離さなくても、だ。
突然リセットのボタンを押したようにこちらを向いていた筈の意識が目の前から居なくなる。流石に心配にもなってくるが口から出た言葉は責める様な強さが出てしまった。
他人の感情の機微に敏感なアーサーがそれに気づかない訳がない。
気拙げに視線を逸らして小さく消え入るような声で御免と呟いた。
ああ、もうそうじゃなくって!
「そうじゃなくってさ−−」
「こぉら、アルフ。なにアーサー苛めてんの」
逃げられるような錯覚がして思わずアーサーの腕を掴もうとした手は忌々しいフランシスの腕に先を越されて阻まれた。ドサクサ紛れに小さな頭を抱き込んで、口振りだけはいつもみたいにチャラチャラしてるけど目の奥笑ってないよ、君。
「苛められてなんかない」
拗ねたように言うけれど明らかに安堵してるアーサーにも苛立つ。
「アート。疲れてるでしょう、少し休もうか」
「平気だ」
「ソファで少しだけだから、ね」
すっかり俺のことは無視かい。
まだなんだか曖昧な抵抗をしているのかどっち付かずなままのアーサーを引き摺るように続きの間に消えていったフランシスの背中を見送って一つ溜息を吐く。手元にはさっきの衝撃で引っ繰り返ったカップがソーサーを紅茶の海にしていた。割れては居ないようだ。
笑顔で後片付けにやってきたメイドに詫びてその場を明け渡すと開け放たれたままのドアから顔だけ出して二人の姿を確認した。
ソファの上、フランシスの肩に凭れかかって目を閉じたアーサーの横顔はいやに白くて不安になる。
「君たちは…」
唇を強く噛んで続きを戒める。
先に手を放したのは俺の方だ。そんなことは解ってる。
だけど手を繋いだままでは外に出られなかったんだ。
鳥篭の外にある空は広くて高くて君を連れて飛べる場所なのか知る術もなくて、閉塞した籠の中に君を置き去りにした。
何度その場面まで記憶を戻しても他に辿る道は見つからないから後悔なんてしてないよ。
それでも君を諦めたくはないんだ。
太陽の強い光を浴びて跳ね返る緑の葉の海から色褪せた麦藁帽子が覗くのが見えた。
「お、珍しいお客さんやぁ」
日焼けした浅黒い肌に眩しいくらい白い歯を露わにして豪快に笑って見せるその人も太陽のような人だった。彼だけは家の都合で短い間になってしまったが数少ない大切な教え子の一人だ。
「本田先生、元気やった?」
「ええ、アントーニョさんもお変わりなく。その姿、随分板についていますね」
「あはは、なんや最近はこっちの方が本業見たいやわ」
抱えた籠にはキラキラした命の塊みたいな様々な果実が一杯詰まってる。広大な農地の真ん中に日除けとして作られた東屋で取れたてのトマトを戴く持て成しはなかなか新鮮でいい。
「今日はフランの御遣いなん?」
「最終的にはそうなりますが、ギルベルト君のところから直接きたんですよ」
抱えた荷物をテーブルの上で解き、中身を差し出すとさっきまでとは別人のような鋭い目で取り上げて矯めつ眇めつ検分する。
彼の本分は法具や魔術を補助する為の道具を加工する職人だ。
「せっかくギルちゃんとこきたならもっとゆっくりしてったらええのに」
「爺を揶揄うもんじゃありませんよ」
にやり笑う顔は彼が案外見た目どおりの天真爛漫な性格でないのを良く物語っている。清濁併せ呑んで飄々としているその姿は三人の中ではいつも一番大人びていた。
「あと、こちらはそれとは別で」
反撃してみたくなる。
「ローデリヒさんからですよ」
彼の数少ない弱点だ。
預かった品物は別に他意のあるものではない。
今はごく普通に仕事のパートナーでしかないのだと困ったように言い訳するようなことでもない。それでもしてしまうのはもう彼の性としか言いようがないだろう。
「ほんま可愛え顔して相変わらずエゲツナイ先生やな」
後に渡した包みはそのまま仕舞い、フランシスさんのところへ返すべき素材を再度翳して陽に透かして見る。光は幾重にも屈折してスペクタクルを描き、淡色の虹を彼の頬に落とした。
「しかしほんまにこれ使うん?」
あんま気が進まんとぼやくのは仕事人としてではなく大事な友人を思う一人の男としてだ。それは私だって未だ同じ気持ちでいる。
「あいつなんかの為にそこまでしたいんやなあ、フランは」
「アントーニョさんはアーサーさんのことがお嫌いですか?」
「好かん。我侭やし気位ばっか高くて可愛げないし最悪や。眉毛やし」
人当たりのいい彼が珍しくばっさりだ。
「まあでも仕方ないよな」
ちょっと複雑な顔で影を落とす横顔は自分に言い聞かせているようだった。
抵抗虚しくようやく力の抜けた体の重みを肩から胸にそっと移動させて一度ゆっくり硬い髪を撫でた。難しく結ばれた眉間に頬を当てて少し荒れた目元の肌に唇を寄せた。
「御免な、アルフ」
潜めた気配にそういうと彼らしくもなく溜息で応えた。
「君に謝って貰う謂れなんかないよ」
不機嫌に不貞腐れた幼い従弟は背後から肩越しにアーサーを見下ろして拗ねた声音で返した。
「ここまできてお前は巻き込みたくないなんて詭弁だよね」
「そう思うならちゃんと説明してくれよ」
「うん、そうだね…ねえ、アルフ、例えばここに風船があったとしてどんどん空気が送り込まれたとする。そしたらどうなるかな」
「…膨らむ」
突然例え話を始めた俺に不審そうに眉をあげて見せて、それでもアルフレッドは一人掛けのソファに腰を下ろして答えた。
「空気の逃げ道がないからどんどん膨らんで膨らんでそれから」
「破裂、する?」
伸縮性を持った素材で作られた風船でも内側からの圧力が勝ればいつか受け止められずに瓦解する。ただの空気が凶器になって。
「うん、そういうこと」
「意味が解らないよ」
「アーサーも同じなんだよ」
世界は循環している。
外界に満ちた目に見えない魔法の源を受け取って再び外に排出する。魔導師というのはそのための道具に過ぎないとギルベルトが言った。
そのメカニズムはまだ解っていないことだらけだ。問題なく循環しているけれど魔法として作用させる能力が著しく低いフェリシアーノのような例もある。人間であるアルフレッドやマシューのように受け取る器官がないものもたまたま生まれついて出力する器官がないルートヴィッヒも一様にして魔力がないものとして表現される。
「アートは違うんだ。本来あるべきだった出口がないんだ」