揺り篭 第一部
「俺はもうこれから君の弟でもないし、フランシスの身代わりでもない」
彼が自由を手に出て行ったのは誕生日の夜だった。
意識の覚醒とともに優しい手がそっと髪に触れる感触がした。
「…ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「…アル?」
そんな筈がない。あいつはこの手を振り払って出て行った。
寝起きの良くないぼんやりした頭に困ったような菫色の瞳。不思議とその眼差しはフランシスに良く似ていると思った。
「あ、すまない…マシュー」
突然訪れた俺を嫌な顔一つ迎えてくれた優しい笑顔はいつだって棘々しい気持ちを柔らかく癒してくれる。弟を奪った俺達のことを恨んでいるだろうと思っていたのに、それは初めて会った時から変わらなくて拍子抜けするくらいだった。
「よく眠れていたようだったからもう少し眠っていても良かったんですけど」
「いやこんなにしっかり眠ったのは久しぶりな気がするよ」
マシューが開けたカーテンの向こうは今日もいい天気のようだった。
「今日は何処に行きましょうか」
三本目のペンが彼の手の中でご臨終を遂げた。
「なあ、菊」
「駄目ですよ」
「…まだ何も言ってないんだぞ」
机に突っ伏したアルフレッドさんの懇願をされる前に断ち切る。
「なんで誕生日に監禁されてフランシスの分まで仕事させられてるんだい、俺!? 物凄く可哀想だと思わないかい!」
「ああ」
煩く喚くメタボをスルーして小さな白い箱をテーブルの上に乗せた。
「先程フランシスさんから戴きました」
中を開ければ小さいながらもちゃんとホールの体をした苺の乗ったケーキが現れる。器用なことにバースデープレートまでちんまりと乗せられている。
それを見たアルフレッドさんはぐったりと呪詛の言葉を吐いて動かなくなった。
私がお願いされた執務はアルフレッドさんを足止めしておくことなのだから仕方ないですね。
ギルベルト君から戴いたグリモアに意識を戻しながら壁のカレンダーに視線を遣る。さっきフランシスさんがいそいそとつけていたなんでもない日の赤丸に口元が緩む。
子供の時みたいに誕生日パーティをしよう。
彼は楽しそうに思いつくまま自分のプランを披露していった。
当日にはもう既に公式的な色々が催されているからそのなんでもない日が都合がいいのだという。内輪だけで皆で好きなものをたくさん作って食べて飲んで。
アルフとマットの誕生日も一緒に祝うから−−そこでようやく、私はアーサーさんがマシューさんのところに居るのだと思い至りました−−二人には内緒で事を進めなければいけない。
ささやかな計画は俄かに屋敷内を活気付け、ドアの向こうでは誰もが忙しく走り回っている。
「ところで」
諦めたのか新しいペンを取り、古語だらけの読み慣れない厳めしい文献を引きながら唸ってるアルフレッドさんに思い出したように訊いた。
「さっきのお話ですけど、結局どうして一度出て行ったここに戻ってこられたんですか?」
「俺が外部の人間になったからさ」
詐欺みたいな話だよ。と。
「当時進めていた新設の皇衛部門の辞令がきたんだ」
断ろうにも徴兵に近いような制度なのだそうだ。確かに屋敷内に置く外部の人間としてこれほど打ってつけの人間は居ないだろう。
大人って汚いよな。
不貞腐れた青少年の主張に私は苦笑いを返すばかりでした。