揺り篭 第一部
ここは大陸だ。俺が学生時代を過ごした菊ちゃんの出身地方で頻繁に見舞われたあの悪夢の天災は滅多にない。
床に叩き付けられた時に運良くクッションの役割を果たしてくれてたお陰で頭を打たずに済んだ命の恩人−−いや恩枕を抱きしめて身を起こすときっちりと堅苦しい靴を履いた足が視界に入った。
そこを辿れば、天使の成れの果てが唇を固く結んで正しく不機嫌そうな風体で立っている。今日も大変眉々しい。
「ヒゲ、腹減った。飯」
夢の中を揺蕩っていたお兄さんはこの凶悪天使に無残にベッドから蹴り落とされたらしい。
ほんと。
どうしてこうなった。
あの日、まだ3つにもならない小さな俺が冒険心に駆られて踏み入れた森の奥で見つけた消えかけた命は立派に大きくなりました。いや、もうそれは立派過ぎるくらいに。眉毛的な意味だけでなく。
「ちょっと、アーティ、なんなのよこの子は全くもうー!!」
「だから飯。いつまでも寝汚ないお前が悪い」
そう言って窓にかかった遮光カーテンを問答無用で引き開けると確かにずいぶん陽は高い。昨日やっとの思いでこの街に辿り着いたのは深夜のことで、それから宿を見つけて暖かいベッドにありつけたのはまだほんの数時間前のことではあるけれど。
「駄目。お兄さんまだ全然回復してないから無理」
「年寄りめ」
もぞもぞと宛ら芋虫の様相でなんとか楽園への帰還を求める俺に、情け容赦ない笑顔で言い放ったアーサーはベッドに腰掛けて芋虫の動きを止める。止めて。靴履いたままじゃないの。お兄さんの額に靴痕つけないで。
「アートとは3つしか違いません」
まあ確かに俺は半人だから体の成長速度はアーサーより速いので随分年が離れているように見られることもあるが、それは単に坊ちゃんが童顔過ぎるだけでしょうと言いたい、心から。
アルフレッドのように完人も珍しいがこいつのように人の血が全く混ざっていない存在と言うのもなかなか稀有だ。と、菊ちゃんが言っていた。
「…」
ふと、ぐりぐりの攻防戦を繰り広げていた脚が抵抗を辞め、簡単に進路から退いた。その先には少し視線を逸らした気拙げな顔。
−−うっかり地雷踏んだ。
共に暮らした10年、それから俺が家を離れた10年。
戻ってきた時、成長したアーサーは俺のことを全く忘れてしまっていた。
いや全くではなくうっすらとは残っているのだと言う。ただ、時間という水にアーサーの記憶は角砂糖のように溶解し希釈されていってしまうらしい。
無限に消えていく訳ではなく何処かで飽和状態にはなっているようで、最初は誰も気づかなかった。その年を経るごとに少しずつ少しずつ彼の中の想い出は崩壊し、曖昧に拡散してゆく。彼の意思に関わらず。
勿論、誰だって時と共に過去は忘れていく。
ただ、それが尋常でなく早いのだ。日常生活には支障はないだけに俺が帰ってきた時には随分と彼を戸惑わせた。
あのことの後遺症なのか原因は全く解らない。
よいしょっと腕に力を入れてベッドの上へ腰を下ろして視線の高さを合わせる。
相変わらず小さな頭は大きくなったとはいえ成長した俺の手には今でもすっぽり収まる。
「オムレツでいい?」
唇を寄せたおでこはほんのりと花の匂いがした。
これでも空腹に目が覚めて、シャワーを浴びて俺が起きるのを待っていたらしい。
解り難いいじらしい子供であることは俺は覚えてる。
それでいいじゃないかと心の中で独り言ちた。
な。
「…なんだい、これ」
遡る事数日前。
「なあ、菊ぅ」
三歩前を歩く小さな後姿が涼しげな眼をしたまま振り返った。
なんですか? と言いたげに軽く傾げた小首は随分愛らしいが俺は知っている。こいつが見掛けどおりではない狸爺であることを。
「まだ買うのかい? 俺もう疲れたよ」
「あらあら、まだお若いのに」
楚々として口元を覆った袂の下で根性なしって言っただろ、今、君。
「少し休ませてくれよ。君は身軽でいいかもしれないが俺はもうこれ以上荷物持てないんだぞ」
「荷物持ちを引き受けたのは貴方じゃないですか」
うっと言葉に詰まる。
確かにそれは嘘ではない。
それは言うなれば売り言葉に買い言葉。勿論、目の前の穏やかな彼はたまに意地悪ではあるが自ら喧嘩を売るなんて野蛮なことはしない。諸悪の根源はいつまで経っても子離れしてくれない困った『義兄』だ。最近の彼は随分とこの異国の魔導師に傾倒しているようで懐いている。
不測の自体で足止めを食らうことになった菊は大丈夫だというのに−−いや、実際大丈夫なのだろう、彼の実力を曇りのない目で見られれば、解る−−一緒に残ると言い出した。
むしろ君が残ったら菊の足手纏いになるよと本当のことを言ってしまった俺には罪はない筈だ。
なのに何故かいつのまにか誰かが残ること前提に話は進められ、消去法で俺が引き受けざるを得ない事態になったのは、あの腹の中では何を考えているのかイマイチ解らない当主の所為でもある。嵌められたと気がついた時には後の祭りだった。
「フランシスさんなら八割方アーサーさんのことしか考えていませんよ」
「人の心の中に突っ込みいれるのやめてくれるかい!」
「はいはい、あとでアイス買ってあげますからあと一軒だけ早く済ませてしまいましょう」
完全に子供扱いだ。
唇を尖らせて抱えた包みを持ち直して渋々後に続く。
一歩足を踏み出した瞬間だった。
「ヴェー!?」
「うわっ」
厄介なお荷物が唐突に空間から降ってきた。幾らヒーローといえども身構える余裕もないんじゃ潰されてしまった。再度振り向いて目を見開いた菊がゆっくりと破顔する。
笑ってる場合じゃないんだぞ!
「いててて、うへへ、ちょっと距離が足りなかったやぁ」
「早かったですね、フェリシアーノ君、ルートヴィッヒさん」
「シット! 早く退いてくれないか!」
「あー…だから辞めておけと言ったのだ…すまないな、ジョーンズ」
突然の衝撃を除けばその白い司祭服の痩せっぽっちの青年を排除することなんて容易い。菊を驚かせようとほんの歩いても数秒の距離を跳んで出現してきたらしい。相変わらず無駄な魔法の使い方しかしないとアーサーが居たら苦虫を潰した顔をすることだろう。
本当に済まなさそうに荷物を半分引き受けてくれた厳つい守役の手を借りて立ち上がるとなんだかどっと疲れた。
「…あれ、アーサーと兄ちゃんは?」
画して今に至る。
俺は今、ベッドルームが一つしかない新婚用のコンドミニアムのベッドの前に立ち尽くしている。
未明の奇襲を受けたそこに居るのは本来この部屋を使うべき新婚夫婦なんかではない、断じてない。騒々しい訪問者をきょとんとしたまだ半分眠った目で見つめている童顔に反して、案外機敏に反応して剣に手を掛け彼を庇う様に腕を回した昼行灯は俺の姿を認めると表情を緩めてくわぁっと一つ欠伸をして詰まらなさそうになんだアルフかと呟いた。