揺り篭 第一部
ep.2
君を失う日を夢に見た。
部屋から出てきた王の顔を見てそれだけでなんとなく場の空気が緩んだ。
「やっと安定したアル。もう問題ないアルよ」
菊がそっと息を解いて絶妙のタイミングで用意した秘蔵の白茶の器を彼の兄に差し出した。たまたま気紛れで行商の途中、俺の敷地内を訪れてくれていた彼が医術の心得があったのは幸いした。
王燿とは俺も学生時代に2-3度面識があるだけだ。未だ俺にすら自身の事を余り語りたがらない菊に輪を掛けて謎めいた彼が本当は菊ちゃんとどういう関係なのかは不明なのだが、王自身が菊がどんなに否定しても自分は彼の兄だと言い張るのだからそういうことにしておいている。
「しかしお前よかったアルな」
首を回しながら、部屋の隅にわざわざフロアマットを引きずって茸のようになっていたアルフに王は無神経を絵に描いたような明るい声でしみじみと話しかけた。
「…なにがいいんだい」
「お前が食らってたら即死だったレベルアルよ。アヘンに感謝するよろし」
「……全然よくないよ」
いつもは明朗快活なアルフレッドからは想像できない様な重い声。
普段の振る舞いほどがさつでもなく案外繊細なところがあるのは最近ではもう既に言わずもがな皆が知ってはいることだが、今回はそうでなくても落ち込むしかないだろう。
アーサーが自分を庇って火龍の猛毒を受け、さっきまで生死を彷徨っていたなんてこの素直じゃないブラコンにしたら悪夢以外の何物でもない。
「まあ、アーサーの場合、腐っても完天だから俺たちよりずっと体の耐久性高いもんね」
「そうアル。元気になったらちょっと解剖させるよろし」
「止めて下さい、燿さん!!」
「冗談アルよ」
いつも飄々とした菊ちゃんが声を荒げるのを珍しいと傍観しながら、とりあえずアル茸の膝元に同じように行儀悪く腰を下ろす。
これに懲りてスタンドプレーと勇敢と無謀の履き違えを慎むようにあの口煩い義兄に代わって一言言っておくべきかと顔を覗き込むと、憔悴しきった目が自嘲気味に歪んでかち合った。
「しかもあの人さ…笑ったんだぜ? よかったとか言って」
馬鹿なんじゃないの、と。
馬鹿は自分じゃないさ、と涙を堪えるアルフの髪を、俺は同意の意味を込めて乱暴にかき混ぜてその瞳を伏せさせた。
これでもう安心、の筈だったのだ。
それは3日後の早朝に起こった。
「フランシスさん!!」
息を咳って駆け込んでくるなんて珍しい菊ちゃんに叩き起こされた。
「どしたの?」
「アーサーさんの様子がおかしいんです」
その名を聞けばまどろみから出ることを抵抗する眠気も吹っ飛ぶ。
「危ないの?」
簡潔に問えば彼はその艶やかな漆黒の髪を揺らして頭を振った。
てっきり容態急変かと思ったそうではないらしい。ならば目を覚ましたということか。それに対しては菊は肯定の意を返した。
軽く混乱してる彼を宥めるよりも自分で見に行った方が早いだろうと半裸にガウンを引っ掛け−−いつもならば人前に肌を晒すことに慣れていない民族出身の菊から軽く抗議を受けるところなのだが−−アーサーが眠っている筈の部屋を目指す。
中からは早朝に相応しくない諍いの声が響いてくる。片方がアーサーの声であることに安堵し、相手がアルフにもかかわらずその様子がいつもとちょっと違っていることに眉を寄せる。
「こら、アルフ。アーサーは病み上がりなんだからちょっとは…」
足を踏み入れて二人を見た。
酷く怯えた目のアーサーも何か強いショックを受けて唖然としたままのアルフレットドも一瞬関心が殺がれ、同時に俺を見た。
「ファーニャ?」
呼び掛けられた名前はすぐに彼自身によって打ち消された。相当混乱している。
アーサーは俺の顔から一時も視線を逸らさず知らない女の…いや、そうじゃない。俺は知っている。確かにその名前の女を知っている。
見上げてくる翠玉は懐かしい程に稚い。その奥に揺れる恐怖の灯火も悲しいかな、俺は一度見たことのあるものだった。
「…違う…お前…フラン?」
落ち着かせようとベッドに腰掛けると恐る恐る手を伸ばしてきた。頬に触れ、顎に触れ確かめるように撫ぜているのをさせるがままにしておいた。なんだか信じられないという面持ちで俺の顎を撫ぜるのは髭の存在を確かめたいみたいだ。
怯えは取れたようだが、それが更に何か彼の中に混乱を呼び覚ましたらしい。
「お前…いつ帰ってきたの?」
あの日、俺がなくした笑顔がそこにあった。
元々人見知りが激しい人だなんて知ってる。
「特に見て解るような異常はなかったそうです。原因は解りませんがショックによる一過性のものだろうとのことです」
知らない人と対面する時にいつも緊張を隠す為に少し怒ったように威圧的に接することがある。当人は威風堂々と振舞っているつもりなのだろうけど知ってるんだ。
それが彼の身に着けてきた処世術だなんてことは。
「−−記憶をなくす以前まで退行するなんて矛盾してないかい?」
俺のことも菊のことも知らないアーサー。
忘れてしまった筈のフランシスを覚えているアーサー。
正直、フランシスはどういう気持ちがするものなのだろうと考えたことがない訳ではなかった。
こうして実際にお前なんて知らないと拒絶されると想像していた以上に凹む。
「そもそも、アーサーさんみたいな記憶障害はあまり一般に例がありませんから。何が原因なのかそちらの方も今でも解ってないですし…ご本人たちが必要以上に問題視しないと決めてしまいましたし」
「ほんとにあの人は忘れっぽすぎるんだよ」
「記憶というのはなくなるのではなく、保管されている場所にアクセスする手段を失っているだけでなにかのショックによって再びそこへのルートが確立されるのではないかとも言われてますし」
どちらにせよ安静のアーサーはフランシスがつきっきりだ。
怯えた子供のような視線を縋るようにフランシスに向けるあの人の姿なんて見たくなかった。
「菊…俺はね、思うんだ」
彼らが好んで飲む渋みや苦味の強いお茶ではなく、甘い合成飲料の冷えたグラスがテーブルにそっと置かれ、菊はぽつぽつと話始めた俺を促すように対面の椅子に腰掛けて姿勢を正した。
視線を落とすと黒い水面に酷い顔をした男が映ってる。今はその大嫌いなブルーが見えないことにすらほっとする。
「フランシスとファーニャがアーサーを壊したんじゃないかって」
俺がボヌフォワ大公に引き取られたのはファーニャが死んでから半年くらい経った頃だ。たまたま事故で両親を失っていた俺達を引き取りたいと突然申し出があった。
姻戚関係にあったとはいえ、失った妻の甥なんてそんなに熱心に引き取りたいというような濃い縁でもない。そういって一族内では猛反対を受けた。そもそも人数も少なく細々と血を守ってきた一族だ。ファーニャはそんな閉ざされた世界がいやで出奔同然で大公家に輿入れしたとも聞いている。
−−結果からいうと俺とマシューは離れ離れになることになった。