揺り篭 第一部
俺はどうして大公が俺達を引き取りたがってるか知っていた。
ファーニャの葬儀の時に見掛けた綺麗な人形。
麦藁色の硬い髪には少女のようにベールが掛けられ、世間の目からそれを隠すように−−もしくは世界から彼を守るように遮られていたが、垣間見た生気を失った新緑の瞳は涙にすら濡れてなかった。
大公の実子は勘当されてもう随分経つ。
それにファーニャの姿を生き映したようにそっくりな美しい容姿をしていると聞いた。ならば瞳は俺と同じ青だろう。
あとから気になってメイドに訊くと名前とその素性を教えてくれた。
生後まもなく殺されて棄てられるところだったのを従兄に拾われた天使の末裔の烙印を体に持つ子供−−それがアーサーだ。
アーサー自身は疎まれていたと誤解しているようだが、大公は不器用ながらにも彼の最後の家族になった養い子の様子を気に病んでいたのだ。彼の子が拾い彼の妻が慈しんで育てた天使の子供。
「アルフレッドだよ。お前が育てるんだ、アーサー」
そうして俺はアーサーに与えられた。
まるで犬猫の子みたいに。
「先程アーサーさんも口にしてましたがファーニャさんというのは?」
話の腰を折らない絶妙のタイミングで菊が柔らかく首を傾げる。
「ああ、知らなかったっけ。フランシスの母親だよ。それで俺にとっては父親の年の離れた姉だから伯母に当たるんだ」
「おや、知りませんでした。貴方達従兄弟同士に当たるんですね」
「ああ、俺とフランシスはあまり似てないけどマシュー…俺の双子の兄貴はフランシスに結構似てるよ。双子だから勿論俺にも似てるんだけど。三人揃うと血縁だと解るってメイドたちにからかわれた事があるんだぞ」
自嘲気味に笑う俺に菊は相変わらず読めない平常の笑み顔で特にそれ以上の感想は述べなかった。
「アーサーはもう覚えていないけど、よく真夜中に魘された彼に起こされることがあったんだ…最初のうちだけだったけど」
いつもぼんやりとした感情のない瞳に、そんな夜だけ一杯の涙を浮かべているのがあまりに綺麗で幼い俺の脳裏に焼きついて離れない。ふらふらと何かを−−フランシスを、ファーニャを捜し求めて彷徨う彼を抱き締めて宥めて寝かしつけるのは俺の役目だった。
−−捨てないで。
心が潰れそうになるようなか細い声は遠い異国の地にも天国にも届かない。
だから誓った。
他でもない俺自身がこの人を護るんだって。
ずっと傍に居てもう二度とこんな風に泣かせたりしないんだって。
残酷なくらいまだ俺は幼くて−−残酷なことに無知だった。
彼の髪にすら届かないもどかしい小さな子供の手はすぐに彼を包めるほどに大きくなった。見上げていた背だって追い抜くのにさして時間はかからなかった。最初はそれが嬉しくて仕方なかった。
「俺達は生きている時間が違うだけだって気がついたのはいつだったかな」
俺を育てるという使命を与えられたアーサーは少しずつ笑うようになり、俺のことを本当に弟のように、時には過剰とも思える愛情をくれた。愛に飢えた彼は愛を与える加減というものを知らず、俺は随分と我侭に育てられたと思う。
歪だけど幸せな鳥篭は永遠には続かない。
いつかまた彼に絶望を与えると知っていながら反比例して膨れ上がる劣情を収めておくにはそれはあまりに小さすぎた。
「本当はフランシスになんてあの人、渡したくないんだ」
傷つけておいて平気な顔して戻ってきた恋敵。
菊は小さく笑うと席を立った。
「アルフレッドさんにいいことを教えてあげましょうか」
悪戯に歪む唇がにぃっと普段の彼に似つかわしくない邪悪で美しい笑みを刻む。
そっと彼にしては考えられないほど近くにそれがある。
「私はね、人間なんですよ」
煤んだ金糸はあっという間にシーツの中に逃げていった。
「アーサーさん」
眠っているとばかり思って少し無遠慮に開けてしまった扉を静かに閉めて敢えて足を進めずにそこからできるだけ優しく呼び掛けた。
アルフレッドさんは遂に昨日、フランシスさんから部屋へ近づくことを禁止されてしまって自室で臍を曲げて膨れている。空回る愛情というのは常に痛々しいものだ。
もぞもぞと蠢くシーツからこちらを伺う姿が野良猫か野生の兎のようでとても微笑ましい。ケモミミ萌え〜…とか思っていることは顔に出してはいけません。
逃げるけれど好奇心はこちらに向いているのを確認して、静かに何もない空間に手を差し伸べる。簡単な幼稚舎で最初に習うテキストにでてくるようなスペルを小さく呟き空気を練成すると雲はふんわりとした碧味がかった姿を形成し、生き物のようにぴょこんと意思を持っているかの如く私の手の中で立ち上がった。
「わぁ…」
キラキラと輝かせた瞳が計算通り現れたので小さく微笑んでパペットに小さく恭しくおじぎをさせて見せた。
「凄い、可愛い…!」
逃げることを忘れてあどけなく手を伸ばす彼に近づいてそっと壊れないように掌に載せてやると、以前の彼ならば考えられないほど無防備な笑顔。手足は完成された大人のそれなのに元々の童顔も相俟って本当に何も知らない無垢な子供のようだった。
「はじめまして、アーサーさん。私は本田菊と申します」
数年前、大人だった彼にした自己紹介と同じ言葉を再度口にすると、あの時と同じように次に彼が興味深げに見つめたのはやはり私の瞳でした。
「ホンダ、キク?」
「ええ、ファーストネームは菊、意味はアーサーさんの言葉でクリサンセマムです」
「綺麗な名前だな!」
敵でないと看做して貰えたらしく彼ら流に手を差し出して握手を求められたので応じる。記憶を失くし幼くなったにも関わらず、彼の答えは全く一言一句違わず、あの日と同じで少し安心した。
「菊はフランの、友達?」
「ええ、私はフランシスさんの先生なんですよ」
聡明な彼は突然記憶よりも成長した姿になってしまった自身やフランシスさんの説明をできる限り冷静に受け止め、彼なりに理解するように努めたようだ。
ただ頭で理解した状態で畳み掛けるように突進してくるアルフレッドさんには完全に苦手意識が沸いてしまったようですけど。
「魔法の先生?」
不思議そうだ。私の容姿は彼らからすれば随分幼く見えるようで彼に限らず、フランシスさんの周りの人に対面する度にこんな反応を受ける。ギルベルトさんなんかはまるで年長を敬う気持ちもなく−−まあ、彼の場合はそれが私に限らず通常運転でもありますが、なし崩しのままに今度は私が彼に西方の魔術を習う立場になって今に至るので、生真面目な彼の弟が私の方がずっと年上だと知った時の狼狽ぶりと恐縮ぶりと言ったら未だに語り草になっている。
「こう見えてもずっとおじいちゃんなんですよ」
−−気が遠くなるほど。
「アーティ、まだ起きてるの?」
あっという間に打ち解けた私たちは思わず話し込んでいたようで顔だけ覗かせたフランシスさんに呆れた様な顔で怒られてしまった。
「フラン、菊、凄いんだ!」
「はーいはい、菊ちゃんが色々凄いのはお兄さんも知ってるよー」