揺り篭 第一部
ep.3
へーそう。
肩透かしなくらい熱のない答えが返ってきて拍子抜けした。
その隣で菊が期待通りオロオロしてる。
「なんで君そんな落ち着いててるんだい!?」
「なんでって今年はたまたまそういう気分だったんでしょ」
毎年のことじゃないと興味なさそうに言われてぐっと言葉に詰まる。確かに彼は毎年この時期になると常に情緒不安定でおかしくなる。ただ、いつもなら部屋から出てこないのに今年は違った。
朝起きてみたらアーサーの姿は屋敷の何処にもなかった。メイド達も知らないの一点張りだ。自家中毒気味の体調不良の体で家出だなんて眩暈がする。
そもそも彼はフランシスと違ってずっとこの屋敷に篭りがちだったから外にはあまり友達も居ないのに何処に行ったというんだ。
「心配しなくっても一週間もしたら帰ってくるって」
「心配なんかしてないよ!!」
だんっと力任せにテーブルを叩いたら思いの他大きな音で浮いたカップがソーサーにガチャンと着地して慌てて手を引っ込めた。一式揃ったテーブルウェアは全てアーサーの見立てでお気に入りだ。壊したりしたらまた煩い。
「もういいよ!」
アルフレッドさんは足音も高らかに出て行ってしまった。
私といったらオロオロするばかりで何もできないまま。
アーサーさんが家出だなんて。相変わらずフランシスさんは涼しい顔でカフェオレを飲んでいる。
「いいんですか?」
「ん? ああ、菊ちゃんも心配?」
いつもアーサーさんのこと最優先の彼がこうも落ち着いているということは行き先を知っているのか、もしくは目処が立っているのか。
私の様子がそんなにおかしいのか一頻り笑うと穏やかな笑顔で視線をこちらに向けた。
「まあ、坊ちゃんが行ける所なんて知れてるしね」
「ですが、このところお加減もよろしくなさそうだったのに」
「よろしくないから出てったんでしょ。あれはアルが悪いんだから」
ああ、俺もかなと彼らしくもなく他人事のように呟く。
何があったのか聞いてもよいものなのか諮りかねていると思い出したように彼はそうだと話を変えた。
「ちょうどいいタイミングでジルちゃんがくるんだ」
多分、昼過ぎには着くかなと告げられたのは彼の友人でもあり、彼と同じ私の教え子でありながら師にも当たる青年の名だった。
昨日降った雨は庭のゼラニウムの上にきらきらとした光の装飾を施していて気持ちのいい初夏の朝だった。
「今日は少し暑くなりそうだねー」
デッキチェアに腰掛けた相棒に声をかけるといつもどおり不思議そうな視線を返された。拾った彼と同居を始めてもう随分になるがなかなか飼い主であることを覚えて貰えないらしく少しガッカリするも慣れてしまった。
今日は朝から少しうきうきしてしまうような知らせがあったのだ。とにかく機嫌がいい。
「…マシュー」
庭に続くポーチの石畳の上で少し困ったような顔で彼が姿を見せたのは予想より少し早い。陽の下で輝く濃いシャンパン色の髪も白すぎる肌も変わらないけど少しまたやつれたかな。
「いらっしゃい、アーサーさん」
自分にとっても義兄と言って差しさわりのないその人を笑顔で迎える。
「突然、ごめんな」
「さっきピエールを返したところですよ」
朝早くに起こされたがそんなことは気にはならなかった。
驚いたように目を見開いた後、拗ねた顔をして彼は自分の行動を読みきっていた従兄に悪態を吐いた。今頃、アルは大騒ぎでしょうけどねと言うと決まりの悪そうな顔をしながらも少しはにかんで相変わらず可愛い人だなあと更に笑みが零れた。
「いつもちゃんとしてやれないからお前の誕生日くらい祝おうと思って、さ」
彼がこの季節になると屋敷の奥に姿を消してしまうようになったのは3年くらい前だろうか。傷つけられた彼の心を思うと胸が一杯になる。
幼い頃からこの人は本当に僕の弟の為に色々と心を尽くしてくれていたのに。
勿論、兄弟と引き離された僕のこともずっと気にしていてくれていた。
「さあ、そんなところに立っていないでお茶の用意できてますよ」
不器用で優しいその人の手を取って招き入れると普段あまり感じることのない優越感。温かなハグとキスを受けながら独り占めできるこの数日間をどう過ごそうか、案外僕って性格悪いよなあと自嘲にまた笑みが零れた。
二人ぼっちの鳥篭に訪れた美しすぎる青い鳥。
初めて会う従兄は噂に違わず非常に美しい姿をしていた。
「おはよう、アート」
突然、10年も行方を眩ませていた御曹司の帰還に屋敷内はまだ色めき立っていた。更に帰ってきて早々一悶着あったのだが、今の彼を見る限り何もなかったような自然な振る舞いしか見えない。
「おはよう…ございます、殿下」
あ、でも今一瞬めげたんだぞ。
凄い温度差を醸しながら人見知りを発動する義兄のよそ行き笑顔の前に色男は敢え無く撃沈した。が、キッチンの黒いゲリラ兵の如くすぐに復活する。
「んもー坊ちゃんたらぁ、フ、ラ、ンって呼んでって言ったでしょ」
「だぁぁぁぁぁっっっっ鬱陶しいんだよっっっっっ」
そして恐れを知らず立ち向かった勇者は敢え無く撃沈した。今度は物理的に。
べったりと抱き着かれたアーサーから繰り出された右フックの美しさに思わず口笛を吹く。ちらっとあまり見慣れない色を浮かべた翠玉がこちらを見る。
「こら、アル行儀悪いぞ…歩きながら食べるなっ!」
最近は常にこんな感じだ。朝から五月蝿いったらない。
人一倍マナーだとか規則に煩いアーサーを軽く流してバーガーを片手にフランシスの傍にしゃがみ込む。うん、残念な美人ってこういう人のことを言うんだぞ。
「おはよう、フランシス」
「お゛はよ゛う、ア゛ル」
生存だけ確認して席に戻った。
被害者加害者ともに身内で人死にが出たりしたら夢見が悪いからね。
何事もなかったように少し我に返って戸惑い気味のアーサーに早く食べちゃいなよとお座成りに言ったが彼はまだフランシスを見ていた。その横顔を見て少し苛立ちを覚える。
次々に生まれる知らない感情に俺自身戸惑っていた。
怒ったような難しい顔も、込み上げてきた何かに耐え切れず少し緩んだ口元も、飽きれたような眼差しも、馬鹿にしたようにつんと澄ました細身の鼻も全部全部それらの変化を齎すのは俺だった筈なのに。
楽園を訪れた蛇が差し出した智慧の実を齧ってしまったのは俺なのか君なのか。
ソファに必要以上に偉そうに踏ん反り返った銀髪の男は私の姿を見つけると機敏に立ち上がりがばぁという効果音と共に不意打ちで襲い掛かってきた。
「菊、元気だったか〜?」
「師匠、ちょっ」
熱烈なハグと頬同士を合わせるキスの嵐。
「兄さん、止めないか。本田のところにはあまり接触する挨拶の文化は…」
「ヴェー、ギル狡いよー俺も菊とハグするでありますー」
呆れ返った声は彼の実の弟だ。片手一つでフェリシアーノ君を易々と吊るし上げ、私に圧し掛かる駄犬…こほん、失礼、ギルベルト君を引っぺがして救出してくれた。