揺り篭 第一部
腰の抜けた情けない姿で乱れた髪を軽く手櫛で直しつつ、無事を知らせると苦労人の彼は眉間に皺を寄せたまま済まなさそうに手を差し出す。貴方はいつもそんな表情ばかりですね、ルートヴィッヒさんと笑顔を見せればやっと表情を解いた。
「相変わらず騒々しいなあ、ジルは」
柔らかく笑って主人自らメイドと共にお茶の用意をしている。古馴染みがくるということで久しぶりにキッチンの立ったフランシスさんはとても楽しそうだった。色とりどりのベリーが乗ったタルトも愛らしい形のクリームの詰まったシュー・エクレールも全てプロ顔負けの彼の自信作だ。
「兄ちゃんもハグ〜」
「フェリシアーノもいらっしゃい」
ルートヴィッヒさんの手からするりと器用に抜け出したフェリシアーノ君を片手で受け止めてフランシスさんも挨拶を交わした。お二人のお家は三代遡るとかなり近い血縁になるらしく幼い頃から親交があったそうだ。実の兄弟のようで微笑ましい。
「菊、フランにセクハラされたり虐められてねーか?」
体勢を立て直してまたソファに背を預けたギルベルト君が目を細めて訊いた。悪戯ばかりしてどうしようもない悪餓鬼が今では何カ国もが協力し合う研究所の最高責任者だ。
そんなこといったらフランシスさんだって一国の主ですけど。
「とてもよくして戴いてますよ」
「あはは、菊ちゃんはアーサーのお気に入りだからなんかしたらお兄さん殺されちゃうのよ」
「そのツンデレ眉毛はまた寝込んでんのか?」
ようやくそれぞれが席に落ち着いて豪奢なアフタヌーンティが給仕される。フェリシアーノ君は既にお菓子に夢中でなにやらルートヴィッヒさんに怒られている。
「家出されちゃいました」
「は?」
フランシスさんから帰ってきた返答にギルベルト君は驚いてその真紅の瞳を見開いたが幼い頃からよく知る悪友がその言葉に対して一切動揺してないのを見て取るとまあ事情は聞かねえよとルートヴィッヒさんの荷物を漁って紙束と小さなディスクを取り出した。
「ま、いねーならいねーで都合はいいな」
魔術で密閉されたディスクはフェリシアーノ君の掌へ。彼は笑顔で受け取ると小さな詠唱でそれを再生始めた。
暫く長い沈黙と重い空気がその場を席巻していた。
「私は…」
誰にともなく呟く。
「私はやはり反対です」
リスクが高すぎる。そんなリスクに可愛い教え子を晒せと言うのですか?
一瞬交わったサファイアに抗議の意味を篭めて見返すと逃げるように伏せられてしまった。未だこの世界にある失われたオーバーテクノロジーはその中身は解明されていないブラックボックスがほとんどだ。これだってそう。
「まあ、菊。俺ももうちょっとここんとこなんとかならないか下の連中に言っとくからよ」
「ギルベルト君…」
見兼ねた師が子を宥める様に私の髪に遠慮がちに手を伸ばすと困ったように微笑んだ。
それは勿論けしてスポンサーとしてのフランシスさんを庇っているのでなく、彼らの長い友情の証だと知っている。
「すぐにどうこうって話じゃねえよ。フランが焦ってんのはよく解ってるけど、そんな短絡だけは俺がさせねーから安心しろよ」
「そうだよ、菊。その為に俺達居るんだから。俺も爺ちゃんの文献とかもっと当たってみるから」
ルートヴィッヒさんに凭れ掛かりながらフェリシアーノ君も笑顔を見せる。
「うん、ごめんね。我侭ばっかり言って」
「兄ちゃん、そういう時は有難うっていうんだよ」
ばつの悪い顔をしたフランシスさんにも太陽のように笑う。
一人で背負うのだと悲壮な決心をして私の前に現れた小さな貴方の姿を思い出す。今はこうしてたくさんの手に支えられて有難うと呟けることに感謝した。
「さて、仕事の話はこれで終わりだ。俺達バカンスに来たんだからな」
「アントンは来週になったらくるってさ」
沈んだ空気を一掃するように背筋を伸ばしたギルベルト君の言葉にフランシスさんが答える。はて、何の話でしょう。
「ああ、菊ちゃんにはまだ言ってなかったね。俺ね、もうすぐ誕生日なんだよ」
「だから今月はお祭りだよ〜だからルートも無理矢理連れてきたんだ〜」
国を挙げてのお祝いはそれは華やかで有名なんだよーとフェリシアーノ君が自分のことのように嬉しそうに私に教えてくれた。
最近、アルの様子がおかしい。
具体的に何がおかしいと言われると説明に困るけれど、強いて言えばふとした瞬間に妙な距離がある。今までは何気なく手を伸ばせば届くところに居たのに、ぎりぎり触れられない距離に居ることが多くなったなと思った。
「反抗期じゃない?」
近頃、大公に公務をほとんど押し付けられて篭りきりのフランシスが眉間をペンのお尻で押さえながらちょっと考えてからそう言った。
「人間は成長早いから俺達でいうとこの15歳か16歳くらいだろ、あいつ」
微妙なにお年頃だよねーなんて暢気に呟いて次の書類にサインしてこちらに回してくる。中身を確認してインクが乾いていることを確認するときちんと分類された山に積み重ね、手元のリストとあわせて一つ背伸びをした。
「疲れたね、休憩する?」
答える前にフランシスは立ち上がった。
お茶の用意なら俺がやるからにと慌てて後を追う為に立ち上がると突然すぎて脳にちゃんと血が回ってなかったのかくらりと眩暈がした。
「っと」
机に両手を突けばやり過ごせる範囲だったがそれよりも早く伸びてきたフランシスの腕に抱き寄せられた。
「坊ちゃん、丈夫じゃないんだから無理しないこと。どうせアルが心配で最近ちゃんと寝てないでしょ」
とても変な気分だ。
俺はこいつのことをなにも知らないのにこいつは俺のことを知ってるみたいに話す。
いつの間にかそこに居て当たり前のように手を差し伸べる。
その温もりが安心する温度だなんておかしな話だ。
頬に上がる熱を感じて子供にするように髪を撫でようとした手を払い除けた。
「ねえ」
気拙い空気に投げられた声に目を上げるといつから居たのかアルがドアに凭れて立っていた。冷たいアイスブルーの瞳にはなんにも感情は映ってなくてぞっとした。
「ア、アル…?」
「君の執務室で何してようが構わないけど如何わしい行為に及ぶんだったら鍵くらいかけたらどうだい?」
「なっ」
突き刺さる侮蔑の言葉に言葉を失う。
アルはそのまま少し低くなった俺の視線をあっさり無視してフランシスの前に立つと分厚い封筒を机の上に放り出した。
「忙しいのか忙しくないのか解んないけど、仕事。悪いけどこれ早急に承認サイン入れてくれるかい」
フランシスは促されるままに中の書面に簡単に目を通してほんの少しだけ眉を寄せた。
「これ、承認しなきゃ駄目かな?」
「おっさんたちは二つ返事で書いてくれたよ」
「…まあ、それがお前の希望なら反対する理由がないわな、確かに」
フランシスは強い眼差しから逃げるように手を伸ばしさっき置いたペンを取り上げて議会のサインの下に自分のサインを入れた。俺の位置からは稟議書とは違うフォーマットで書かれているそれの内容までは見えない。
「…有難う」
書類を受け取ったアルが初めて俺を見た。
「じゃあね、アーサー」
突然の別れの言葉は意味が理解できなかった。