揺り篭 番外集
Bye, Baby Bunting
まだ俺自身が小さな頃、腕の中にすっぽり包まれてしまう小さな身体を抱き締めて小さく歌を唄ってやったことがあった。
温かい微睡みにうつらうつらと舟を漕ぐ翡翠は細いながらも包むというには十分に手足を伸ばし宛ら少年のようでありながらもゴツゴツと骨ばって硬い。成長しきった彼がこうして大人しくその身を預けているのは偏に謎の退行を起こしてしまった精神による。
すっかり半分を夢の国へ追い遣った幼馴染はさっきから頻りに空いた右手で俺の顎を撫で回していた。
「なあに、アート。お兄さんの髭わしゃわしゃするの気に入ったの?」
最初に意識を取り戻した時にも盛んに気にしていた顎鬚。指が埋まるほどの長さもない切り揃えられた自慢のそれは彼が知る頃の俺にはなかった。
「おひげなかったらファーニャにそっくりだったのに…」
稚い声で睡魔に抗いながらアーサーがポツンと零す。
甚く残念そうなその響きに少し凹む。そういえば髭を伸ばし始めた当初はトーニョやジルにも評判がやたら悪かった。
一生懸命鼻梁を辿り唇を擽りまたぞりぞりと短い美髯の感触を形のいい爪先で悪戯に遊ぶ。何度も何度も瞬かせた長い蜂蜜色の睫を下げて特徴的な眉の根元をぎゅっと絞った。
「坊ちゃん、お兄さんの顔好きだもんね」
「別にお前じゃなくてファーニャが綺麗なんだからな、びゃか」
舌が上手く回っていないのか咬んだ。懐かしい舌足らずな罵声を吐いた唇を咎める様に軽く指先で塞ぐ。薄いけれど柔らかな花唇をなぞってちゅっと戯れのように触れるだけのキスを贈ろうとしたら、ペチッと掌に阻止された。
「お兄さんのこと嫌い?」
「ひげ、ヤダ。チクチクする」
ふにゃふにゃの寝惚け坊ちゃんの体からは力が抜けて重くなっていく。
「お髭なかったらキスしてくれるの?」
夢現にんーと唸って返事した愛しい子はもう夢の中。
数日後。
最初にいつものように朗らかに挨拶を交わそうとした菊ちゃんはそのまま固まった。
「どうなさったんですか?」
視線はお兄さんの麗しい美貌に釘付け。
朝のダイニングは早起きな菊だけでなく珍しくアルフレッドも既にテーブルに着いていてぼんやり新聞を眺めていたが、そちらも俺の顔を見るなりぽかんと口を開けて固まった。
「おはよう…フラン、邪魔だぞ」
「おはようございます、アーサーさん。もう御身体は宜しいのですか?」
「ああ、いつまでも寝てばかりいられねえし」
いつもよりも少し遅れてきたアーサーが俺の背中を足蹴にしてから席に着いた。暫く従順なアルフレッドは何を言われるまでもなく自分が見ていた新聞を義兄に差し出す。それを当たり前のように受け取ってちらっと俺の方を横目で見たアーサーはすぐに記事に視線を落とそうとした−−が、すぐに物凄い勢いで俺の方を首ごと向き直った。
「おい、糞髭…髭何処やったんだ」
それじゃただの糞じゃねえかなんて汚い言葉に泣いちゃいそう。
すっかりつるつるぴかぴかになったお兄さんの魅惑の顎に皆の視線が集中している。
「えー…お兄さん、アーティが髭剃ったらキスしてくれるっていうから剃ったのに〜」
「はぁ!?」
元に戻ったアーサーに退行中の記憶がないのは先刻承知。
がしゃんとアルフレッドの持っていたカップがソーサーに墜落した。危ないなあ。
「酷い。お兄さんとあんなこともこんなこともしてくれるっていったのは嘘だったのね!?」
「君はなに言ってるんだい!」
アルフレッドが上擦って引っ繰り返った声で怒鳴る。当のアーサーはすっかりあんぐり口を開けて放心している。
「お髭があるとチクチクするから嫌だって言ったじゃない」
「誰が」
「お前が」
覚えていないから違うときっぱり言い切れないアーサーをによによ笑い見る。
−−んが。
「フランシスさん、ちょっと宜しいですか」
背後からドス黒いオーラが漂ってきた。
「私には師として教え子が道を踏み外さないように管理する義務がございます…それで、あんなに幼くていたいけな萌えアーサーさんとなにをしてどんなお約束をなさったのか、ちょっとあちらの別室にて確認させていただきましょうか?」
菊が凄い笑顔と凄い力で俺の肩を掴んで立っていた。
いつもは優しく嫋やかな菊が怒るとそれはそれは恐ろしく、菊の家で見た般若という鬼のマスクみたいになることを俺達教え子連中はよく知っていた。知っていたのに目の前の欲望に目が眩んだのさ。それは男としていつかは乗り越えなければならない試練だ。
「菊ちゃん、ちょっ…ちょっと待って!」
ズリズリと引き摺られながら、俺はそれでも後悔なんてしていない。