雨 The rain and my foolish pain
視界の不明瞭が続き、その後はやはり植物どころではなかった。今まで彼女ら植物のためにマスターを無視したことはあっても、マスターのせいで植物を無視したことはなかったのが(たとえそれが目が霞むという仕方のないことであっても!)混乱に拍車をかけて、ひとまず鎮まろうとまた窓に頭を打ち付けてでも何も考えられなくて、の繰り返しを続けていたら窓ガラスがぴしぴしと嫌な音を立ててさすがに心配になってきたので、私は後ろのキャメル色のソファに横になっていた。
ピンクの髪を無造作にソファに零して皮革の匂いをかいでいる内に段々落ち着いてきたが、落ち着いたことで頭にこびりついていた思考に言葉が与えられると、それはより現実感を伴った不安となっていった。
議題「もしかしたら、という可能性について」。
今回の入院は大したことないかもしれないが、そういう可能性もあるのだ。何気なしに、自分の手のひらを見つめる。象牙のように恐ろしく整った白い指。サンゴ色の爪。そこに絡まる桃色の、ピアノ線のような細い髪。壊れなければ、物持ちのよいマスターならば、そしてマスターが「病弱」というものならば、マスターの命令さえなければ。もしかしたらマスターよりも私は、長生きをするかもしれないということ。「寿命」の最果てに立つのは、私かもしれないということ。
それは嫌だ。マスターを喪ってしまった後の私なんて想定できない。マスターへのこの忠誠心は最優先順位だ。消去できたとして、それから何を理由に生きればいいのだ。
「……え?」
そこまで考えた時にふと、何か小さな違和感に気付いた。気付いた瞬間違和感は折角治まっていた私のあの例の、黒い感情へと姿を変えたかと思うと、刹那にその姿を膨張させて身体の内部から侵食し、喉元がきゅううっと締め付けられるような感覚を植え付けてきた。すぐさま循環器官の様子がおかしくなる。気を抜いていた私の身体はみるみるうちに異常をきたしていった。手のひらは震え出し、得体の知れない感覚に不安が溢れて止まらなくなった。声を出そうにも頼みの音声機能は何故か肝心な時に動いてくれず、ア、ア、と奇妙な音になる。身体の熱が上昇し、自身の結露がぽたぽたとキャメル色のソファに染みをつけて、より濃い色の痕を作り出していく。身体の機能は麻痺しっぱなしだ。だがなぜか思考だけはクリアで、なすがままになるしかない、と原因不明の異常を素直に受け取っている。
ただ痙攣を繰り返すうち体力を激しく消耗したのか、自分でもあまり気付かない間に、意識は落ちた。
目を開けると不思議な空間にいた。地面には青々とした芝生が広がり、空気は光を反射して時折七色に煌めいている。雲はブラッシングされたかのように散り散りだ。母胎にいるかのような安心感を与える、柔らかい光と暖かな温度。重力だって低く感じる。身体が軽い。そして気が付けば芝生を押しのけてできた、こんもりと土が盛られている場所に、いつものあの桃色のジョウロで水を遣っていた。土からはいい匂いがしていて、経験からしてこれはいい花が咲きそうだと思った。環境のお陰で、とても穏やかな気持ちで水を遣り続けられる。
大きく育て、と祈りを込めた。
「ルカちゃん、大丈夫? ルカちゃん?」
突如誰かに体を揺すられ、意識が徐々浮かび上がった。シュイーン……といつもの起動音がするのを感じながら、ううん、と目を閉じたまま二三度頭を振る。
「……大丈夫です、すみません。何か不具合があったみたいで」
そう言いながら目を開けると、マスターのお母さんがこちらを見ていて思わず声を上げそうになった。一瞬、マスターが声をかけたのかと思ったのだ。咄嗟のことに判断に時間がかかり、まごつく。それにマスターのお母さんが不安げな顔をしたので、取り繕って微笑んだ。
「夢を見ていたみたいです。夢って……私が言うのもなんですが」
でも夢以外に考えられなかった。ウイルスとはまた違う、苦しみもなくむしろ甘美ですらある緩やかな機能停止。
きっかけとなったあの黒い感情については、考え出すとまたさっきの症状が出そうな気がしたのでそっとフタをしておくことにする。マスターのお母さんの前であんな発作を見せたらマズい。
一方のマスターのお母さんは、私の言葉にうふふ、と上品に笑っていた。よかった。意識が落ちていたのはバレていないようだ。
「生きて動いているのだもの。夢だって見るわ」
きっと疲れていたのね、と付け足し、帰り道に買って来たのであろう沢山の食料品や生活品の入った買い物袋を両手いっぱいに持ち、マスターのお母さんは台所に姿を消した。さすが主婦である。行動が早い。
「マスターはどうでしたか?」
「二週間ほど、安静が必要みたい。でも元気そうだったわ。お友達もお見舞いに来てくれたみたいで」
「お友達?」
「クラスメイトよ。そうねえ、友達という程仲が良さそうには見えなかったけど、毎日授業のプリント持って来てくれるって言ってたわ。これから友達になってくれればいいのだけどねえ」
冷蔵庫の開け閉めする音を聞きながら、マスターのお母さんの少し疲れたような声を聞く。彼女の疲れを癒すように、返した。
「大丈夫です。マスターならきっと上手くやれますよ」
「そうね。早く仲良くなれるといいわ」
初めてのマスターのいない生活は、寂しいというより「家に人が一人いないだけで、いつも通りの状態」で始まった、と言った方が正しいのかもしれない。マスターのお母さんを見送り、庭の手入れや帰って来たマスターのお母さんのお手伝いをしているうちに容赦なく時間が過ぎ、そこに寂しさを感じている暇などなかったからだ。だからたぶんこんな調子で二週間は経過するのではないかと思う。
いつも通りではなくなったのは、その日の終わりのことだった。11時を過ぎた時、いつも通り自分の電源を落とすためにマスターの部屋へ向かおうとしたら、ぷるるるる、とリビングの電話が鳴り響いた。
「もしもし」
「もしもし、ルカ?」
「……マスター?」
顰められた声は受話器越しでさらにくぐもって、だけど確かに届いた。驚いている私に、そうだよ僕だよ、といたずらっ子のような調子でマスターは返す。今顔をきゅっとさせたに違いない。しかしこんな夜遅くに電話などして、病院というところは平気なのだろうか。
ああそうか、だから声を顰めているのか。
「よかった。電源落としっぱなしにされてるかと思ったよ」
「お庭の世話は私が担当ですから」
「ああそうだね、そうだったね」
「それで、要件は何ですか?」
「……今日ね、クラスメイトが来たんだ。見舞いに」
「聞いています」
「名前もあんまり覚えていなかったんだけど、何とか喋って、それで、毎日来てくれるって」
「よかったですね」
「……それで僕、そいつらと仲良くなれそうだよ」
「はあ」
「それだけ言いたかったんだ。なんとなく」
何を言いたいのかわからないまま相槌を打っていると、少しの間の後、決心したようにマスターが声を大きくしてそう言った。
作品名:雨 The rain and my foolish pain 作家名:つえり