雨 The rain and my foolish pain
涙が止まらなかった。痙攣も治まらない。震える声のままマスターのお母さんを遠ざけるが、人間で言うと蛙を潰したような声が合間に電子音となって出て、その度にマスターのお母さんの顔が歪んだ。舌は痺れるし、汗で髪の毛が顔中にべっとりと纏わりついてくるが、払う余裕もなくなす術もないまま、黒い感情に内部を侵食されていくのを受け身で感じるしかない。そして身体中が異常をきたす中で、唯一クリアな意識はひたすら私を責め続けた。
「ルカちゃん、病院行きましょう。私が連れて行くわ」
「大丈夫です。すぐ、収まります」
とは言え身体の熱量はぐんぐん増して周囲の空気を暖めて水滴を作り、大量に皮膚の上を滑っていった。カーペットにも、ぽたりぽたりと染みをつけていく。信じられない程に身体が熱い。視界も白や黒の細いラインが飛び交い、砂嵐を時折齎す。だがここで意識を失えば病院に連れて行かれてしまう。そうしたら私の身体は、私の身体は、不要の長物だ。捨てられてしまう。捨てられてしまう。
「マスターの、おかあさん。私のバッテリーはあと少しですぐ切れるとおもうけど、びょういんに連れて行かないで。お願い」
「でも、大丈夫なの?」
「だいじょおぶ、です」
「…………わかったわ」
「おねがい、おねがいね」
それだけを振り絞って言って私は目を閉じた。黒い感情が幾重の帯になって私を包み、繭を作って私を閉じ込めていくようだ。私の意識は、すぐに統制が利かなくなった。
馬鹿なルカ。
そして再びの夢の中。
何度も繰り返した光景だったので、もう動揺はしなかった。青々とした芝生。しゃぼん液のように、七色に煌めく空気。母胎にいるかのような柔らかい光と暖かな温度。先ほどの異常が嘘のように身体が軽い。そして夢の中では、すでに咲いたあの花が待っていた。
ゆらりゆらり。花は心地よさそうに揺れている。私は先ほどまでの自分の状況や色んな感情が混ざって、花が揺れるのをただただ見上げることしかできない。
だけど色んな感情が混ざる私の心には、たった一つだけ、ないものがある。
「それがお前か」
ゆらりゆらり。応えるように花は揺れた。
この花は私の寂しさだ。何の寂しさかはわからない。私が生まれて寂しいという感情を知ったその日からの、全ての寂しさを表しているかもしれない。ありとあらゆる寂しさかもしれない。或いはこの一時一瞬の寂しさかもしれない。
今ではゆらりゆらり揺れるその姿もどこか悲しげだ。
「おおい」
その時遠くから私を呼ぶ声が、耳元をふうわりと通った。
「ルカ」
振り返れば10メートルほど先芝生の上に、見慣れた少年が立っていた。色素の薄い肌、くりくりの瞳、真っ黒の髪、ひょろひょろの手足、薄い唇。マスターだった。
久しぶりに会うマスターは、どこも変わってなどいなかった。どうして入院とやらをしたのかわからないくらいいつも通りだった。
動揺する私をよそに、マスターは顔を思いっきりきゅっとさせる。
「マスター」
その顔にやっとのことで声が出た。
「マスター、ここは夢の中ですよ。こんなところまで来ちゃいけません」
「いいじゃないか。やっとルカに会えた。ねえ、これルカが育てたの?」
綺麗な花を咲かせたね、と私の隣で、愛おしそうに背伸びして花を撫ぜる。
ゆらりゆらり。花と戯れるマスターは、庭で世話をする私と似たような表情をしている。
気付けば滑らかに言葉が出ていた。
「……寂しいから、マスターと一緒にいたかった訳じゃないのです」
「うん?」
「自分の寂しさが花になって咲いて、こうして見てみて、やっとわかったのです。寂しさとは、私のモノもマスターのモノも皆々、同じ姿をしているのだって。そして、なにより」
「うん」
「私は寂しいがためにマスターと一緒にいたかった訳じゃないって」
「うん」
皮肉な夢だ。花が咲くまで、どうやら自分がずっと自分自身の寂しさを育てていたらしい、なんて全然わからなかった。
花が咲いた今、私はもう、寂しくない。
「人間なら、この花のことを『愛しい』と呼べたのでしょうか」
「うん」
「でもマスターは、それでもマスターは私を愛してはいないのですよ」
「違う」
「違いませんよ。電話越しでもわかりました」
「違う、違うんだルカ。僕はルカが好きだ。好きだよ」
好きだ大好きなんだ、と繰り返し訴えるマスターの声は、今までマスターがそんな声を出すことなんて知らなかったくらい切なく聴こえた。
好きではなくなっているのに、貴方は私の名前を何度も呼ぶ。
貴方のことを想う私は、貴方の名前を一生呼べないのに。
境界線が見える。
「マスターは以前の学校でのお友達と会えなくて寂しいから、私を好きだと言い張っていたのです。でも今は新しい友達ができたから、寂しくない。元々愛しくなんかない」
「ルカ、聞いてルカ」
「私の話を聞きなさい。ここは私の夢です」
ぴしゃりとそう言い放つと、マスターは仕方ないと言った風にやっと口を閉じた。
「今は、そう今は少し複雑になっていて、きっと『愛しかった』を『愛しい』と言い張っているのでしょう。マスターが大切にしているのは、『愛しかった』という感情です」
「違う」
「それは決して悪いことじゃない。人間が他の感情たちを『愛しい』と言えるのはとてもとても素晴らしいことです。だけど私はボーカロイドです。貴方の『寂しい』を知れても、『寂しい』だけで『愛しい』には見えない。私は愛されてないどいない。なのにどうして、貴方の言葉に返事などできるでしょうか」
「違う」
「違わない。私は、あんなに気を付けていたのに境界線が見えなかったんだ。貴方は人間だって」
「ルカ、泣いてる」
「泣いてなどいません。私はボーカロイドです」
「でもルカ」
「なんです。いい加減にして下さい。私は、私は」
「ここは夢の中だよ」
マスターがそう言った瞬間私の両眼からは得体の知れない塊が次々と流れ出し、それが何か感知するより早く、同時に震え出した身体を受け止めるように、マスターが私を強く抱きしめた。
咳き込みそうになる程力を込められた。溢れたのは涙だった。涙が私から溢れている。空を流れる星のように、頬の上を幾つもの道となってつたう。何度も何度も目を瞑るけど止まらない。うわああん、とあがる声も堰き止められない。呼吸がしづらい。つたう涙は次々とマスターの胸へ吸いこまれる。涙は、まるで今までこの花に水遣りしてきた分だけ、溢れていくようだった。
呼吸が落ち着いてきた頃、マスターが密着していた身体を少しだけ離した。背中と胸が軽くなる。マスターの胸へ吸いこまれなかった涙が、顎をつたい首筋へと落ちていった。
「ルカ」
しゃくりあげる声は止まらなかったが、それでも私は顔を逸らせないでいた。マスターが真剣な顔でこちらを見ている。それはいつか雨が降る直前、草むしりする私を抱きしめた時と同じだった。真摯に一心にこちらを見つめている。
「教えて。僕のこと好きだった?」
脳裏には未だに境界線。煌びやかに、優しい声で囁き横たわるあの境界線が見えている。
「言ったよね。『寂しいがためにマスターと一緒にいたかった訳じゃない』って。じゃあ、何のために一緒にいたの。教えて」
作品名:雨 The rain and my foolish pain 作家名:つえり