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二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹

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 ここまで躊躇なく進んできたにも関わらず、扉を押すか否か、サンジは迷っていた。というのも、この先に何があるか、というか誰がいるか、わかっているようでわかっていない、勘弁してくれと思いながら期待してもいる、そんな矛盾が渦巻いているためだ。けれど、結局は確信しているのだ。ため息ばかりの人生だ、そう思いながら、サンジはようやくマホガニーの扉を押した。
 天井に散りばめられたシャンデリアはもはや光を灯しておらず、室内はほとんど真っ暗闇と言っても良いような状態だったが、その中でぼんやりと見える影はやはりサンジがそうだろうと思っていたその人物のものである。
「どうせ、いると思ったぜ」
「そりゃどうも」
 船が傾いたりボイラーが爆発したりと衝撃が絶えなかったせいか、バーラウンジの見事な絨毯の上にはいくらか酒瓶の破片が散らばっていたが、そんな中で、男は随分と悠長に足を組み、酒を飲んでいた。まったく悔しいが、それが随分と様になる奴だ。安物のシャツを着て、ずっと替えていない重たそうなブーツをどかりと繊細な絨毯に乗せ、こんなアンバランスな部屋で、炎に焼けた浅黒く無骨な手で高い酒をぐいぐいと傾けている。
「どうしてだろうな」
 サンジはカウンターに入りながら、ひとりそう呟いた。
「どうしてこう、俺はお前と、巡り合っちまうんだろう」
 高い酒を飲む男、ロロノア・ゾロは、片眉を上げながら答えて言った。
「理由なんてあるもんか」
 あってたまるもんか。
 思い出してみれば、刑務所で2人がはじめて出会ったそのとき、サンジは誤って着せられた殺人の咎で、ゾロは不敬罪で投獄されていたのだが、そのどちらも、囚人の大暴動とそれに伴う刑務所自体の崩壊という事件で無に帰した。燃える監獄を見下ろしながら、そのとき二度と会うこともあるまいと別れたはずなのだが、サンジが行き倒れたゾロを路地裏で拾ったのはそのたった一月後のことである。
 いったいどうして、そのサンジの疑問に対して、ゾロは理由など無いのだと言う。理由を求めたいのはサンジで、あってたまるかと思うのがゾロだ。そのどちらにおいても、根本には退っ引きならない感情があるためなのだと、気付きながらもおくびには出さない、出せない二人である。
「……まあ、因縁もとうとうこれで終いってわけだ」
 なにしろこの船は沈むのだから。
 なげやりなサンジの言葉に、やはりゾロは片眉を上げた。ゾロはあまり、感情、気持ちを口に出すことがない。だから、サンジは自分ばかりが何かを言ってしまうのは悔しい気がして、いつも苛立ちを抱えることになるのだった。こいつのことは大嫌いだ、けれど、出会ってしまう。それが運命だとか、偶然だとか、魔術だとか、そういう理由があれば、サンジはそれに身を委ねて、いい加減この腹に溜りに溜ったものを吐き出せるような気がするのに……。
「なあお前、逃げなくていいのか」
 ほとんど手持ち無沙汰ゆえから、サンジはそんなわかりきったことを尋ねた。
「まあな」
「命は惜しくねえのかよ」
「今更ボートなんて残ってやしねえ。氷山がゴロゴロする海で絶望に死ぬより、俺は高ェ酒を飲みながら逝くと決めたんだ」
「妙なやつだ、相変わらずな」
 命が惜しくないと、そういうわけではないのだろう。けれどロロノア・ゾロはいつもこんなふうなのだった。ヒルトンホテルの最上階でも、彼を殺そうといきり立つ追っ手が彼の背後で銃の引き金に指を掛けるそのときまでサンジを抱いていた。
「そうは言っても、てめえだってここにいるだろう」
「レディを置いて逃げられやしねえさ」
 そう言ってサンジは、愛おしげにバーのカウンターを撫でるのだった。レディ・スカーレット号。貴婦人の船。
「飲めよ。こんなに高ェ酒が、全部タダだ」
「ケチな野郎だぜ」
 そうは言っても結局は隣のスツールを叩かれたことが嬉しくて、サンジはカウンターを出てしまう。何より、それが因縁の理由なのだと、彼は気付きもしない。

 ●●●

 酒がほうぼうにまで回るのと船の傾斜が増していくのとはほぼ同時で、ドォン、ゴォン、さあいよいよ沈むぞという段になって、サンジは赤い顔をカウンターテーブルに横たえ、娼婦めいた笑みを浮かべてみせる。
「そろそろ、沈むみたいだぜ」
「なあゾロ、聞こえるか? 表じゃいくつも花火が上がってる」
「ああ。照明弾を打ち上げてるんだろう」
「何色かな」
 知るか、とゾロは答えられなかった。答えに詰まってしまった。知りもしないのに、「きっとオレンジ色だろう」と、そんな知ったかぶりをしてしまいたくなったけれど、それは許されないことなので、ただ口をつぐんだ。彼は時折、サンジの前で少年であった。サンジは気付いていないのだけれど。
 しかしゾロのその気持ちを、サンジはあっさりとすり抜けていくのだった。今だって、自分が口走った疑問を覚えてもいないのだろう。猫みたいな奴だ、と時折ゾロは思った。
「ああ、もう沈む。海の底はいったいどんななんだろうな。人魚はいるかな……」
 いるもんか、ただ冷てえだけさ、そう答える代わりにゾロはサンジの身体を抱き寄せた。不思議なことに、サンジもまた、ゾロの背に腕を回したのだった。冷たい海の底も、この男がいさえすれば、あるいは愉快にもなるだろう。多少は。

 レディ・スカーレット号は沈んでいく。渦を巻いて、不幸なる者たちを道連れに、底へ、底へと沈んでいく。彼女は眠りにつくのである。その理由は誰も知らないが、鋭敏なる猫、ミス・ラベンダーはもしかしたらそれを知っているかもしれず、彼女は渦を眺めながら、同時に二人の男を思い出しているのかもしれない。



 どれほど経ったろうか。
 指先を動かしたと同時ぱちりと目を開けた男に、周囲を囲んでいた老若、上は80下は5つまでの男たちは一様に驚きの声を上げた。
「生きてたよ」
「すげえやつだ」
「随分飲んでたから、身体が熱かったんだ。それで助かったのさ」
「そんなばかなはなしはあるめえ」
「あるある、あるさ。だってこの兄さんは生きてるじゃない」
「神様のおぼしめしじゃ。海の女神、カリュプソーがお助けくださったのじゃ」
「へえ、爺さん、そりゃあんたのかかあのことかい……」
 男の目がぼんやりと落ち着かないことをいいことに、各々、勝手なことをいい加減に騒ぎ立てる。実際、妙に彼らは興奮していた。あの惨状、悲劇とも言うべきレディ・スカーレット号の地獄、その中で漂う生者を拾い上げた。この、高揚!
「兄さん、この船はネレウス号という。救難信号を受けて、飛んでやってきたのさ。そこで、海に漂ってるあんたを拾った。いや、あんたは幸運だよ。まったく、信じられねえ話さ……あの、スカーレット号が……」
 『スカーレット号』。その言葉に、男は弾かれたようにびくりと震えた。当然のように起き上がることは叶わないが、可能であるならば無理でもそうしていたに違いない。そういう、鬼気迫る色を瞬時に瞳に宿した。