またたびと侍
その3
机の上に地図を広げて、並べた駒を凝視しながら白石は考える。ここ数日、ずっとこの睨めっこを続けていた。
大きな川を挟んだ対岸に、敵は陣を敷き背後の砦を守ろうと待ち構えている。あの砦は元々こちらの敷地にあったもので、それを奪取されたらしい。付近にある村や人々の治安も気になることながら、砦の堅牢さを知っているからこそ攻め辛い。
山とこの川に挟まれて手を出し難いのだ。川を越えようとすればその間に矢の雨が降り注ぎ、山にはいくつも罠が敷かれてある。もともと入り組んだ地形で、慣れてない者は歩くことさえ困難だ。ここ数日敵を図る目的で軍を推し進めてみるも、何かとうまくいかなかった。
交渉に人は出しているが、散々な結果だった。この間などは差し向けた人間の首をあわやとられるところだった。相手は戦から流れた野侍のようで、汚いやり方にこちらの士気は上がりっぱなしだ。何故攻めないのか、馬鹿にされたままでいいのかと散々声が上がっており、それらを諌めるのにも苦労している。
もちろん俺とてその気がないわけではない。ただこれといった打開策が思い浮かばないのだ。川の水を塞き止めようかとも思ったが、そうなると下流の人々に影響が出てくる。それは最後の手段で、下策とした。
俺が打って出てもいい。だがその間この陣で指揮をとるものがいなくなる。当然俺の代わりはいるが、任せるにはまだ危うくその隙を狙われないとも限らない。間者を送って探らせてるが、大将らしき男が少なくともふたりいるということ以外、情報は流れてきていない。
じりじりとした睨みあいはずっと続いていた。このままでは、予想通り冬が来てしまう。この地は豪雪地帯だ。そうなったらおめおめと軍を引かざるを得ない。
なんとかその前にケリをつけたい。云々と唸りながら腕を組んでいると、俄かに陣内が騒がしくなった。
何事かと誰何しようとしたところで、部下が駆け込んできた。
「申し上げます、妙な男が勝手に入り込ん、うわ」
部下はそう声を上げると隣を見上げた。思わず刀を抜くも、それを気にも留めず現れたのは。
「…千歳?」
「あぁ、やっと見つけたばい。すまんばいね、言ってもきいてくれんかったけん、強引にお邪魔したと」
敵じゃなかとよ、と隣の部下を見てにこりとするが、こんな大男誰が見てもびびるだろう。変に迫力がある男に笑いかけられ、部下はどうしていいかわからず抜き身のまま俺と千歳を見比べていた。
「あー、俺の知り合いや。騒がせてすまんな。ちょっと落ち着かせてきぃや」
はっ、と声を上げて刀を仕舞うと、直ぐに走り去る。感心したように千歳が声を上げて俺を見た。
「ほんとに大将さんやっとらすと」
「悪いねんけど、今お前に割く時間ないねん。手短にな」
俺は椅子に座って千歳を見上げる。彼はいつものようにひどくだらしない格好のままだ。彼を見るのはあの日以来だ。あれからあいつはまた消えたし、俺はこうして出陣の準備に追われ構う余裕がなかった。そんな彼が、何をしにここへやって来たのか。
「白石は、俺のお殿様たい」
「まったく不本意やねんけどな」
俺の言い草に、千歳は苦笑するように息をつく。
「俺、抱えられるときに言ったつたい。腕には自信があるち」
そういえばそんなことを言っていた気もする。そんなことよりも、こいつの性格自体に問題があるからすっかり忘れていた。
「戦なら、俺を連れて行きなっせ」
「…どこほっつき歩いてんのかわからん奴を、連れて行けるはずないやろ」
「酷かねぇ。俺はそげん信頼ばされとらんと?」
「当たり前や。ここは戦や。ろくに素性も知らん。どこに居るかもわからん。そんな奴、使え言う方が無理やわ」
「どぎゃんしたら信じてくれるとや?」
俺は少し、言葉に詰まった。思いのほか、こいつが切羽詰った顔をしていたからだ。
もしかしたら初めて見る彼の真剣な表情に、ほんの少しだけ驚いた。
「……腕に、自信ある言うたな」
「うん」
俺は彼の腰に差された刀を見た。それが抜かれたところを一度も見たことはないが、それは常にそこにあった。果たして彼のそれはどの程度なのか、まだ図っていなかった。
目を細めると、俺は己の指で地図を指した。少し口早に今の状況を説明する。あらかた終わったところで、ちらりと千歳を見た。彼は真剣に聞いている。
「この砦に奇襲、かけられるか?」
およそ非現実的な話だった。もちろん俺は断られるのを覚悟していた。こんな勝機のない策、誰も乗らないだろう。
だが千歳はふっと顔を上げる。俺と目を合わせて、にべもなく言い捨てた。
「そぎゃんこつでよかと?」
あまりな言い方に、俺は気が遠くなりそうだった。
「自分、これがどんだけ無謀なことかわかっとるん?言うとくけど、部下はつけへんで。単騎でやれや?」
「よかよか、おったら逆に邪魔ったい」
とんでもないことを口走った奴に、俺は二の句が告げなくなる。固まった俺を余所に、千歳はさっきまでの飄々とした空気が嘘のようにぺらぺらと口を開いた。
「さしおり、3日ちとこかね。少し時間ばかかるけん、その間に準備しなっせ。奇襲かけるのは、昼。煙が見えたら合図たい。砦の中から開門させる。目の前の陣は適当に散らしとくけん、混乱しとうとこ騎馬で突っ込みなっせ。あとは、矢対策かね。白石んこつやから、防寒用に蓑ば持って来とうとやろ?それ分解して頭から被りなっせ。敵さんは高いところから射てくるけん、垂直に落ちてくっと。頭上さえ守れればよかよ」
次々と捲くし立てられる言葉に、俺は理解するのが遅れた。他にも千歳は進軍時の編成など、細々としたところまで話してくる。情報を処理しきれず、俺は待ったをかけた。
きょとんとした顔で見てくる千歳は、本当にあの千歳なのだろうか。
「なんや自分。まるで戦見てきたような言い分やないか。なんでそんな詳しいことまでわかるん?」
言えば、千歳はへらっと笑った。そして質問とは見当違いなことを言ってくる。
「白石ば俺が守るけん、安心しなっせ」
「答えになってへんで…」
いつもの調子に戻った千歳に、俺は少し安堵しつつも呆れ返った。先ほどまで地図上の駒を動かしていた彼は、どこか知らない人間のようだった。信じたくはないが、それが少しだけ、怖かった。
「…居らんくならんで欲しか」
笑っていたはずの千歳が、唐突にそう切り出した。真摯に見つめてくる瞳に、思わず俺は視線を逸らせなくなる。
「誰が?」
「白石が。俺の知らんところで、居らんくならんで欲しか」
言うや否や彼は俺の頭に手を乗せてくる。まるで慈しむように髪を梳かれ、瞠目した。
「…何やねん。自分は勝手に出歩くくせに」
「うん。それは認めるけん、白石は駄目つたい」
髪を梳いていたはずの手は、いつの間にか頬に移動していた。そっと硝子でも扱うかのように触れられる。
「俺が帰るところに、白石が居って欲しか」
曰く、今回俺が勝手に遠征したことで、彼はたいそう驚いたらしい。もぬけの殻だった屋敷を見て、とてつもない焦燥感に駆られたそうだ。
そうは言っても、先に千歳がどこかに行ってたわけだし、まことに勝手な言い分に腹を立てる。
「大層な身分やな。俺はお前のモノちゃうねんで」