空には青く、何もない
柳さんが口を開く前に、不明瞭ながら勢いだけはある挨拶をして何かが始まりそうな気配を断ち切った。柳さんが軽く溜め息をつくのを無視してロッカーを開け、いかにも遅刻しそうで焦っているから話をしているヒマがない、ような素振りでシャツを脱ぐ。裸の背中に柳さんの視線が痛いほどに刺さるように感じた。俺は必死に、あちこちが意味不明に凹んだり汚れたりしているロッカーの中の、シールを貼ってはがしたような跡に視線を固定して着替えを続ける。
もう一度軽い溜め息が聞こえた。柳さんは静かに部室を出て行った。俺は閉まった扉を見つめながら、俺の動作はわざとらしかっただろうかと考えた。
もしあまりにわざとらしかったなら、柳さんは、俺が口をききたくないとアピールしたように感じたかもしれない。
着替え終わってコートに出ても、そのまま二人とも、互いに一言も口をきかずに練習を始めた。
俺は他の二年と一緒に柔軟をして、外周を走って、いくらかラリーを続けたあとにひたすら壁打ちをした。今までは柳さんとリターンを練習していたけれど、どうしても声をかけるきっかけが掴めず、向こうから声かけてもらうこともできず、避けてしまったのだ。
そんな自分が嫌だった。自分らしくないことをしている、というのは、逃げているようで不愉快だったし(実際逃げているんだが)、ストレスだった。
何も考えなくてすむように、わざと苦手なサーブ&ボレーの壁打ちを続ける。本当なら二人でやるべき練習も、やり方次第では一人でも続けられる、と、方法を教えてくれたのも柳さんだった。けれどそういうことさえも思い出したくなくて俺はがむしゃらにラケットを振った。柳さんの言ったいちいちが、自分でも驚くほど鮮明に蘇ってきて、俺は自分で思っているよりずっとあの人の話を真剣に聞いていたんだと思い知る。
ロブボレーは苦手だし、ダブルスくらいでしか使わないしと練習をしたがらない俺に、半ば強制的に教え込もうとした柳さんの苦戦ぶりに副部長が苦笑し、部長はまるで猛獣のしつけだと笑っていた。ほんの少し前の話だ。
そうだ、ほんの少し前まで、柳さんは猛獣と同じ檻の中に入ってムチを振るうような果敢さがあった。間違っても自分が俺に食い殺されるはずはないというような、実力の伴った自信で俺と対峙していた。
そういうところが好きだった。
逃げることも隠れることもなく、やれるものならやってみろと胸を張る姿が、物静かな外見を裏切るような強さが、好きだった。
それが変わったのは、俺と話したあの日からだ。明らかに様子がおかしかった。俺は彼の触れてはいけない部分に触れて、彼を変えてしまったのかもしれない。
俺が、一度も望んだことなどない方向に。
俺はきつく目をつぶった。足を止め、歯を食いしばって俯く。普段なら、俺が練習を少しでもさぼるとすぐに「赤也」と声が飛んでくる。
昔のように叱ってほしかった。けれど、何も言われなかった。
何の声もかけられないのが、わざとなのか気づいていないからなのか、それさえ分からない。ただ、見放された気がして、果てしなく孤独だった。
数歩の距離をおいて壁に向き合い、ぼんやりと視線を落としていた地面に後ろからスッと、俺以外の影が伸びる。
「やなぎさ」
「…………」
反射的に呼びながら振り返った俺に、打ち返されないまま転がっていったらしいボールを俺に渡しにきたジャッカル先輩が気まずそうな顔をした。
「……スンマセン」
うなだれる俺に、何と言ったらいいか分からない様子で首を振る。
「いや、……無理すんなよ」
「はい」
俺を慰め、励ましたいと思っている、というのが丸わかりの顔で、心配そうながら笑ってみせると、ジャッカル先輩はぽんと俺の肩を叩いて自分の練習に戻っていった。
その背中を眺めながら、受け取ったボールを握り締めた。
怒られなかったのは、柳さんの様子がおかしいからじゃない。
俺の様子もおかしいからだ。
普段は口が悪く、さすが丸井先輩の親友というような悪ふざけもするジャッカル先輩が、ただ俺を気遣っていた。
俺はおかしい。俺と、柳さんはおかしい。そして、このままじゃもっと悪くなる。
「…………」
壁を見つめて、それから空を仰ぐ。青く、何もない。
テニスボールを思いきり握り締める。
「柳さん」
後ろから近づき、改まった声で呼んだ俺に、柳さんはぎくりとした顔で振り向いた。久しぶりの会話だった。
「ちょっと話があるんで、部活の後残ってくれませんか」
「……わかった」
柳さんは少し俺の顔を見つめて、理由を聞かずに頷いた。今ここで言えとは言わなかった。
俺が答えないだろうと思ったのだろうか、それとも、柳さんにも心の準備が必要だったのかもしれない。
俺はそれだけを伝えるとすぐ背中を向けた。少しでも長く向き合っていると、やっぱりいいだなんて撤回してしまいそうだったからだ。
俺の後姿を、柳さんがじっと見詰めている気がして、振り向けなかった。
とりあえずそれから何事もなく部活は終わった。俺は緊張して吐きそうだった。言いたくない。でも、言わなくてはならない。けれど言いたくなさすぎて胃が痛かった。何かそこらのものを手当たり次第に詰め込まれた感じで、むかむかして息ができない。
だけどこれはどうしても、向き合わないと駄目なことだったから、死ぬ思いでこらえていた。
早々に着替えを終えて部室のベンチに座り、無意味に携帯をいじりつづける。全神経は、俺の周りにいる人間の動向に注がれていた。
仁王先輩と柳生先輩がこの前アルバムを貸した貸さないと遊び半分で口論をしていて、丸井先輩が今何時かと聞いてジャッカル先輩が腕時計を見て答える。なら軽くどこかに寄っていくかと話がまとまったあたりで仁王先輩が自分も行くと乗っかり、柳生先輩も賛成してそのままわいわいと四人で出て行った。幸村部長は今日は駅前の花屋のお姉さんとデートだと言って早々に帰ってしまっていて(実際は一方的な片思いらしいが)、一人マイペースに着替えていた真田副部長を柳さんが鍵なら自分が職員室に戻しておくと追い出す。
その全てを俺は顔を上げずに見ていた。
二人きりになっても俺は顔を上げられなかった。空気は重苦しかった。柳さんも俺と同じか、それ以上に苦しいだろうと思った。俺は大きく深呼吸し、一つ頷くと立ち上がった。柳さんに顔を向ける。
「……ちょっと飲み物買ってきます」
「赤也」
「……戻ってきたら、話します」
目を見て言うと、柳さんは一瞬まるで殺される寸前の動物のような顔をして、けれどすぐに目を閉じて頷いた。
隣接した高等部の敷地に入って、クラブ棟の入り口にある自販機の前に立つ。内側の蛍光灯に照らされ続けて暖かくなった自販機のプラスチックの窓に手を当てて、大きく溜め息をついた。小銭を入れてウーロン茶のボタンを押す。ガラガラと音を響かせながら出てくる缶を取り出し口から拾って、その場で開けて一口飲んだ。
言わなくては。俺のためにも、彼のためにも。
重い足で戻った部室のドアは半分開いていて、ノブに手をかけて引く前にベンチに座った柳さんの姿が見えた。ひどく考えこんでいるような雰囲気に圧されて、俺はドアの前で立ち止まった。
作品名:空には青く、何もない 作家名:もりなが