空には青く、何もない
柳さんは俺に見られていることに気付いていないようだった。組んだ足の腿の部分にノートを乗せて、じっとそれを見つめていた。ノートは古びて、ところどころにメモが貼り付けてあるからか閉じた状態でもいびつに膨らんでいる。
柳さん一人しかいない部室の空気が、妙に緊迫していて、俺は声をかけるどころか部屋に入っていくこともできなかった。
柳さんは小さく溜め息をつき、
さだはる、と呟いた。
その声は小さかったのに、本当に小さかったのになんでかはっきりと俺の耳に届いた。
俺はこの人に名前で呼ばれていた(あとほかのいろんな先輩にも)。柳さんは部長と副部長のことも名前で呼んでいた。けれど、そのほかのどんな人間も名前で呼びはしなかった。
俺はひそかに、この人は特別な人だけを名前で呼ぶのではないかと思っていた。それが俺だけであればいいと思わなくもなかったが、他の二人が他ならぬあの人たちなので、それなら仕方ないかと思っていた。なのに、
さだはる。って誰。どんな人なの。
俺は思ったけれど、体は動かなかった。頭も。
柳さんの口から零れたそれは、俺を呼ぶのとも、部長とも、副部長を呼ぶのとも違って、とても特別な重さを持っている、ように俺は感じてしまった。
柳さんは顔を上げて、俺を見た。
まるで俺がそこに立っているのを知っていたような自然な動きだったけれど、俺を認めた目が驚きに丸く見開かれて、そうでないと知れた。
「赤也」
柳さんはやはり名前で俺を呼んだけれど、『さだはる』という響きよりもずっと軽いように感じた。そんなふうに思ってしまう自分がなんだか空しかった。顔も知らない誰かに嫉妬しているのだろうか。たかが呼び方ひとつのことで。
「……すんません、戻りました」
まるで何も見なかったように言ってドアを開け、部室に入る。柳さんも、まるで今までじっと見詰めていたノートは何でもないものだというように、何気ない手つきでノートを取るとベンチへ置きなおした。
俺は、俺の行動も柳さんの行動も疎ましく思った。俺が子供なのだとは分かっていたけれど、何かから目をそらして続けてゆく関係は、俺にとってはひどい負担だった。
そんな柳さんのさりげなさが演技なら、それに気づかない俺の無神経も演技だった。
柳さんが俺に何かを隠すことで何かを円滑にまわそうとしているのに気づくたびに、俺は胃のあたりが重く沈むような不快感を味わった。
石のような重くかたまったものが詰まった腹のあたりを中心に、ぐるりと世界が半回転するような感覚。
柳さんの態度の変化とそれに伴う違和感を感じるたびに、柳さんが機嫌をうかがうような顔で声で赤也と俺を呼ぶたびに、ふわっと足が宙に浮いてしまうような、地面が頭のほうにいって、空が足の下にきてしまうような、意味もなく根拠もないけれど激しい不安と不快感に襲われた。
なんだこれは。なんだろうこれは。
俺はこの人を好きになっていたことを後悔した。たぶんこれは、ただの『先輩』には感じない気持ちだったし、俺がこの人をどうとも思っていなければ陥らなかった事態だと思ったからだった。
柳さんは俺を赤也と名前で呼んだ。それが特別なことではないかと俺は少し期待していた。俺は単純だから、俺を特別だと思ってくれているかもしれない人を、特別に思い始めていた。その人とほんの少し食い違いができたくらいで、どうしようもなく心が乱れてしまうほど。
座ったままの柳さんの前に立つ。
「柳さん」
「……ああ」
「……俺ら、……離れませんか」
これからずっとってわけじゃなくても、せめてしばらくの間は。
言った俺に、柳さんは血相を変えて立ち上がった。
「なぜだ」
「や、離れるとか言ってもそんな大げさなことじゃなくて……ちょっと時間置くとかでもいいし」
その勢いにおされながらも続けようとした。
「嫌だ」
「ちょっと考える時間ほしいんすよ。少し離れて、会わないでいろいろ考えてみたいし……」
「嫌だ、いなくなるな」
俺はわけがわからなかった。そんなに大げさな話じゃないだろう。そんなに顔色を変えるようなことでもないし、ましていなくなるなんて言っていない。
突然の話の噛み合わなさに眉を寄せる俺に構わず、柳さんは脅しつけるように言った。真剣さは怖いほどだった。
「何を考えているんだ!?」
それはこっちのセリフだった。
俺はまた柳さんの触れてはいけない部分に触れたのかもしれなかった。けれどあの時と同じように、そんなことはなかったように曖昧に引き下がれはしなかった。あの日、データは全て頭の中にあると言った日も、柳さんは頑なに俺の言葉を否定した。あれから、全てがうまくいかなくなった。
そしてそれを思い出すと同時に、俺は自分が感じていた違和感と不安の正体に気づいた。いなくなるな、俺の側からいなくなるな、その言葉は、俺が言ってしかるべきものだ。
データは全て自分だけで記憶し、あとには何も残さない。あんたがいなくなってしまえば何も残らない。それはあまりにも身作りに似ている。
自分だけにしか分からない理屈で人を拒む。ほんの一度のいさかいで、他の人間よりも確かにいくらかは親しかったはずの俺にも露骨に態度を変えて、理由も言わないまま、まるでいつでも、このまま、簡単に、
「お前もいなくなるのか!?」
顔を強張らせた柳さんは俺の腕を掴んだ。ただでさえ握力が強いというのに手加減もなしに掴まれ、ジャージ越しにも爪が食い込んで痛い。
ぐっと拒むように腕の筋肉を緊張させてこらえた。
「いなくなるのはあんただろ!!」
俺は怒鳴った。
とたん、柳さんの顔が白くなった。
血の気の失せた顔を見て、俺は少しやばいなと思った。
柳さんは表情をなくしたまま動かなかった。ただ俺の腕をつかむ腕は常識外れに力がこもっていて、こもり続けていて、俺だってそれなりに体は鍛えているはずなのに、潰されまいと抵抗しているはずなのに、骨がきしむように痛かった。
俺は歯をくいしばった。しばらくそのまま耐えていた。
柳さんの腕がかすかに震えた。肩も震えた。俺は俯いた彼が泣いていることに気付いた。
「柳さん」
俺は声をかけた。怯えた動物に対するように、なるべく怖がらせないように。彼は言った。
「……いなくなりたくない」
あかや、と小さく俺を呼んだ。
泣いて目を腫らしている、と、知っていてさえいつもと変わらないように見えるこの顔はもしかしたら得なのかもしれない。
場所を変えようと学校を出てマックに入った柳さんは、Lサイズのポテトを三つと爽健美茶を頼んだ。お姉さんが注文を繰り返すまでに一秒の間を必要とした気持ちがなんとなく分かる。
俺もコーラを単品でなどと言わずにバーガーなりポテトなり頼むべきだったかと思いつつ頭半分ほど高い位置にある顔を見上げると、ねだっていると思われたのか少し考える顔をしてから少しなら食っていいぞと呟かれる。これだけの量があるのに「少しなら」と念を押す食い意地が怖い。
ポテトばっかりこんなに大量に、食べてるうちに飽きてこないのかと他人事ながら心配していると柳さんは、
「あとシャカシャカの、ホットチリの粉を二つ」
作品名:空には青く、何もない 作家名:もりなが