happy kitchen
【ある日の昼 * 玉子丼】
まるい玉ねぎにざくり、と包丁を入れて半分にして、薄切りに。
トントントン、という軽い音が室内に響く。
玉ねぎが全て切れたら、先程煮干しと昆布でとった出汁が入っている鍋に投入し、砂糖・醤油を加えて、中火でことこと。柔らかくなるまでには、少々時間がかかる。
そこまで支度を終えて、ふう、と息をついた。
『お前に、俺の食事を作る権利を与えてやろう』
ほんの数時間前に十神クンから突然告げられた言葉。
意味はそのまま、ボクに朝食・昼食・夕食全ての食事を作れという仰せだった。
冗談じゃない。相手が彼じゃなかったら、そう軽くつっぱねれたのかもしれない。けれど相手はあの十神クンだ。断ったらどうなるか分かったものじゃない。もしかしたら、腹いせにボクを殺すかもしれない。・・・まあ、本気でそう思っているわけではないけれど、ただでさえ危険なこの環境で、心配事を増やすのが得策でないことは明らかだ。
だから、ボクは湧き出る不満を全てぎゅうぎゅうと押し込めて、彼の願い(正確には脅迫)を受け入れた。
確かに、十神クンが料理をする姿なんて全く想像がつかない。しかも、毎朝の食堂での朝食会には参加していない。だとしたら閉じ込められた今までどういう食生活をしていたのか気になったので、無事完成した3段ホットケーキを持って行ったついでに聞いてみた。すると彼はメープルシロップの甘さに眉をしかめながら、倉庫にあった適当なレトルト食材を食べていたのだと教えてくれた。元々食には大して執着がないらしい。
そうすると、じゃあなんで今になってボクにご飯を作れなんて言ったのかという疑問が当然浮かんでくる。この問いかけにも、彼はフォークとナイフでホットケーキを優雅な手つきで切り分けながら答えてくれた。『お前がヒマそうだったから、仕事を与えてやったまでだ。感謝しろ』と。聞くんじゃなかった。
ちなみに、彼の『いただきます』も『ごちそうさま』も聞くことはできなかった。聞くことができるわけもなかったが、僅かな期待もしてなかったといえば嘘になる。
しかし実際に彼にそんなことを言われた日には、卒倒してしまうかもしれない。もちろん嬉しさからではなく、恐怖で。だから言われなくてよかったんだ、たぶん。
ただ、ひとつだけ意外だったことがある。
彼は料理について、何も不満を漏らさなかった。
超高校級の御曹司ということは、食生活だってボクみたいな一般人とは想像もつかない位に差があったはずだ。だからてっきり、こんなゴミみたいなものを俺に食わせるとは、だとかいう罵詈雑言が飛んでくると覚悟していたのだが、その予想は良い意味で裏切られた。
現にメープルシロップがお気に召さなかった(もしかすると甘いものが嫌いなのかもしれない)様子だったが、眉を寄せるだけで不満を口にすることはなかった。
「どうしてかなあ・・・」
ぐつぐつと鍋の中身が煮えて、甘辛い匂いが鼻孔をくすぐる。
菜箸で玉ねぎを1切れつまみ上げて口に入れるとほろり、と崩れた。調度良い柔らかさ。
玉子3個をボウルでときほぐして、高い位置から鍋にするりと落とす。出汁と混じり合ったそばから、ふわふわと黄色の塊が浮き上がってくる。
ボウルの玉子が全てなくなった所で、ほんの少しだけ熱を加えて、火を止めた。
「よし、出来た」
もしかして、せっかく作ってくれたのだから不満は言わない、ということなのだろうか。
――まさか、ありえない!それじゃあまるで、新婚家庭の新妻を溺愛する夫のようだ。
自分で想像しておいて、その可能性のなさに絶望した。
すると、食に対して執着がないと言っていたのが理由かもしれない。
だとすれば彼がボクの作ったものを口にするたびに暴言に怯える必要がなくなるということだから、結構なことだ。それは同時に作る張り合いがないということでもあるが、そもそもどんなに良いものを作ったところで彼が褒め言葉を口にするとは到底思えないから、同じことだった。
食堂をひょいと覗いてみるが、まだ十神クンは来ていない。
ちらりと目線を上にやると、時計は12時50分を差していた。13時頃には来ると言っていたから、きっともうすぐ来るだろう。
厨房に戻り、丼を温めるために沸かしたお湯を注いだ。
ゆらゆらと立ち上る湯気をぼんやりと眺めながら考える。
――ボクは彼が苦手だ。
それは今でも変わらない。
でも、彼に対する印象が昨日と今日では大きく変化していることは確かだった。
だって、彼と(一応だけど)普通の会話が出来るなんてこと、ボクは知らなかった。
もちろん彼がホットケーキを食べることも、メープルシロップが苦手なんてことも、全然知らなかった。
理解の出来ない、得体の知れないものに苦手意識を抱くのは、人として当然だと思う。
(・・・でもボクは、知ってしまったんだ)
一度知ってしまったことを、忘れるなんてもう出来ない。それが今のこの状況において良いことか悪いことか、今はまだ判断できないけれど。
――ボクは彼が苦手だ。
(だけど、嫌いじゃ、ない)
作品名:happy kitchen 作家名:アキ