UNITE
オタコンは昔のことを思い出す。小さな女の子と結婚の約束をしたこと。もちろんそれは他愛も無いままごと遊びの延長で、オタコンも軽い気持ちで頷いたのだ。けれども、彼女と――エマと離れることを決意したあの日、エマはその約束を持ち出してオタコンを詰った。
『お兄ちゃんのうそつき! 結婚するって、約束したじゃない!』
それはいかにも子どもらしい、うまくない方法だったと言わざるをえない。泣きじゃくるエマに困り果てながら、しかし決意は決して揺るがず、彼女の濡れた頬をちょうど今と同じように拭って必死でなだめた。
今のオタコンにはあの時のエマの気持ちがよくわかる。自分をまさに捨てていこうとする人に慰められることがどれだけ悲しく、憎らしいか。
エマが自分にしたように、もっと激しい口調で引き止めればよかっただろうか。或いは、泣いてみたら。いやしかし、あれでも充分なりふり構わずやった方だ。あまりにも感情的で、思い出せば恥ずかしくなってしまうぐらいに。いや、でも、やっぱり。いろんな種類の後悔がオタコンの胸にとめどなく渦巻く。
「私はいなくなったり、しない。何も言わないで、どこかに行っちゃったりしない!」
サニーは涙を拭う指を振り払うように軽く首を振りながら言い放つ。その言葉にオタコンは思考の澱からふっと引き戻された。
やがてサニーは力なくオタコンの胸に倒れこむ。何かに耐えるかのように震えている小さな肩をそっと抱きながら、ああ、とオタコンは眉根を寄せて目を瞑る。やはりサニーは賢い子だ。そして、優しい子だ。どこまで気付いているのかはわからない。けれど、きっと自分の姿を見てなんとかしなければと思ったのだろう。もしかすると自分まで消えてしまうかもしれない、とまで考えたのか。
この子もまた、離れたくない人をうまく引き止める術を知らないのだ。
オタコンはサニーの頭に手を置くとその銀の髪を手で梳く。子どもらしい細くて柔らかい髪の毛はさらさらとオタコンの指の間を通っていく。
「スネークのこと、だね」
そう聞けば、オタコンの緑のセーターに顔を埋めたまま、こくりと頭を動かして頷く。
しばらくの間、沈黙が続いた。サニーに本当のことを話すべきかどうか、オタコンの胸に俄かに迷いが生まれる。
ここでサニーに本当のことを教えれば、スネークとの約束を破ってしまうことになる。サニーだってショックを受けるはずだ。スネークが自分たちの前からいなくなったのは自分自身を殺すためだ、なんて七歳の子どもにはとても受け入れ難いことではないだろうか。自分だってまだ完全に受け入れているとは言えないのに。
しかし自分がそのことを口にしなくとも、いずれサニーは感づいてしまうような気もする。こんな重大なことが自分には隠されていたと知った時、そこには衝撃だけでなく不信感までもが生まれてしまうかもしれない。サニーは今ようやく情報だけではなく人間自体のことを知ろうとし始めているのだ。その進歩に水を差すようなことがあってはいけない。
煩悶するオタコンの耳に、重たい空気の中をのっそりと進むようなくぐもった声が届く。
「どうしてスネークはひとりで行っちゃったの? ハル兄さんは止めなかったの?」
「止めたさ」
うまくいつもの調子を装えているかどうか自信がなく、誤魔化すようにオタコンは咳払いをひとつした。
「止めたんだよ、もちろん。けれど、スネークは……どうしてもひとりじゃなくちゃダメだって。わかるだろ、スネークって変なところで頑固だから」
そう言って苦笑してみせた瞬間、サニーが身体を起こしてオタコンの顔を見上げた。ちっとも笑っていないサニーはオタコンのブラウンの瞳を見据えて、はっきりとした語調で言う。
「私にも、教えて欲しかった。今までずっと一緒にいたのに、さよならも言ってくれないのってひどいよ」
返す言葉もない、とオタコンは思う。サニーは切なげに眉を寄せ、続きを話す。
「私、スネークのこと好き、だよ。ハル兄さんも好き。私……みんなと家族になりたいの」
涙声ながらもしっかりと口に出された言葉に、オタコンは声を失う。『家族』、自分にはもう一生係わりのない単語だと思っていた。苦しさにも似た感情が胸の奥から湧き上がり、昨日から緩みっぱなしの涙腺を刺激する。鼻の奥がつんと痛くなる。
オタコンはサニーの腕をそっと掴んでいた手を離し、眼鏡を上げる仕草を装って痛みと共にせり上がるものを何とか紛らわせた。
サニーはさらに続ける。
「家族って本当はよくわからないけど……、ジョニーとメリルは昨日家族になったんでしょう? だから、私もハル兄さんと結婚したら家族に、なれると思ったの。スネークのことも探して……」
言葉を遮って、オタコンはサニーをぎゅっと抱き寄せる。
「ハル兄さん?」
「サニー……わかったよ」
オタコンの声に滲むのは、諦めというよりは悟りに近い感情だった。
『どうか俺のことはサニーには言わないでくれ』
あの時のスネークの呟きをオタコンは聞かなかったことにすると決めた。スネークのことを話そう。スネークの最期のことを。サニーには知る権利がある。
自分の存在を、自身がこの世に生きた痕跡を抹消したがったスネーク。でもオタコン自身の記憶からスネークが消えることはない。当然だ、オタコンにとってスネークは本当に大きな存在なのだから。彼と出会って自分の人生はすっかり変わってしまったのだから。
オタコンだけじゃない。どれだけの人達がスネークのことを
――時に愛し時に憎みながら――その存在を求め、その存在に心を動かされ、その存在に救われたか。その記憶は決して消えるものじゃない。消していいものじゃない。だってその記憶がなければ自分たちは自分たちたりえないからだ。たとえスネークが人に作られた忌まわしい存在だとしても、戦争の火種であるとしても、そんなこととは関係なくただスネークはここに、この世界に"居た"のだ。
だから、サニーにもどうか憶えていて欲しい。彼の晩年に、彼と一緒に過ごした人間としてその存在を心に刻み、そして誰かに伝えて欲しい。それが自分たちの人生にこんなにも激しい痕跡を残したままあっさりと消えてしまおうとしているあの男への精一杯の愛であり、仕返しなのだ。
オタコンはそっと腕を解き、サニーを見つめながら穏やかな声で彼女に語りかける。
「君に本当のことを話すよ。きっと……とてもショックを受けると思う。それでも」
「いいよ、私、聞きたい」
サニーの大きな瞳が自分を真剣に見つめ返してくるのをしかと受け止めて、オタコンは頷く代わりに一度ゆっくりとまばたいた。
「スネークが旅に出たというのは、嘘なんだ。スネークは……彼はもう、」
そこでオタコンが言いよどんだ、その時だった。
「俺はもう、帰ってきた」
後ろから投げかけられた男の声。オタコンもサニーも、よく聞きなじんだ低い声。しかし、それは。
オタコンは目の前のサニーが自分越しにその声の方を向き、そしてその顔がみるみる輝きだし、ついにその人の方へ駆け出していくまでをぼうっと見ていた。サニーがいなくなると今度は床へ目を移す。なぜだかとても口の中が乾いている。
「スネーク!」
「サニー、ただいま」