その夜は泣いていた
「ああ、もうそんな時期だっけ。地元で就職するの?」
「まだ決めてないんすけどね。親は帰って来て欲しいみたいだけど」
「確か長男だったよね。なら、そうかもねえ」
タカヤはほんの少しだけ困ったような、それでもどこか穏やかな表情で笑った。こんな顔をする子だったかな、と秋丸は記憶をさぐる。けれども、過去と照らし合わせて考えられるほど、秋丸はタカヤを知らなかった。
榛名があまりに頻繁に話に出すので、古い友人のように思ってしまいがちだが、実際には数えるほどしか顔を合わせたことはない。
「あれ、でも」
続けた言葉に深い考えはなかった。ただ単純に、頭に浮かんだままを口にしただけだった。
「野球は? 普通に就職しちゃうの?」
秋丸の問いにタカヤが反応を示すよりも、榛名が不機嫌そうに口を開く方が早かった。二人の会話を遮るように大きな声を張り上げる。
「タカヤ!」
叫ぶような声にタカヤが榛名の方へと向き直る。榛名は手をのばした。
「帰るぞ」
そういうくせに、未だ腰は下ろしたままでその場から動こうとしない。タカヤは呆れのまじるため息を漏らした。
「なに、子どもみたいなことしてんですか。自分で立てるでしょ」
「俺を迎えに来たんだろ!」
焦れったげに榛名が手の先を揺らした。タカヤはそれをしばらく見つめたが、動かなかった。
「じゃあ」
そっと手が差し出される。
「ちゃんと掴めたら、ひっぱってあげます」
榛名とタカヤの間には、ちょうど一歩半ほどの距離があった。タカヤは動かない。榛名も動かない。お互いに頑なに距離を保ったまま、手を伸ばしあっている。
滑稽にも見える光景だった。秋丸には、今の二人の関係がそのままこの情景に現れているように思えた。榛名は意地を張っていた。
「元希さん」
タカヤが名前を呼んだ。意地が吹き飛んだのは、榛名の方だった。
ぐっと足に力をこめて腰を浮かせて前にのめりながら、タカヤの手を掴む。榛名が勢いのままに体を倒したのと、タカヤが勢いよく引き寄せたので、榛名の体はタカヤにのしかかっていった。
自分より随分と大きな体を、たたらを踏んでタカヤは受け止める。榛名は、タカヤにぎゅうとしがみついていた。
「酔っ払いに、無理させんなよ」
「それは自業自得でしょ」
「……やさしくねーの」
「十分優しいですよ。他のやつなら、そのまま転がしておきます」
そこまで言ったところで、タカヤは榛名の体越しに秋丸へと視線を向けた。
「あ、秋丸さん」
なりゆきを見守っていた秋丸は急に声をかけられて少しばかり驚いた。榛名とタカヤの二人のやり取りに、何か侵しがたいものを感じていたのかもしれない。
「え? ああ、なに?」
「秋丸さんも、良かったら送っていきましょうか」
「うーん、そうだねえ」
大分酔いは覚めたようだが、タカヤ一人で酔っ払いの相手は大変だろう。榛名を家に送り届けるまで手伝って、そのついでに送ってもらえるなら秋丸としてはありがたい。
秋丸が口を開きかけた時、タカヤに張り付いたままの榛名が顔だけ振り返って言った。
「秋丸はついてくんな」
いーっと、威嚇するように歯をむき出しにしてみせる。まるきり子どもだった。
「元希さんには、聞いてません」
「お前が迎えに来たのは、俺だろ」
「一緒に帰るくらいいいじゃないですか。どうせ方向同じでしょ」
「だめだ」
体を寄り添わせたまましゃべるので、二人の顔の位置はたいそう近かった。もうすこしで鼻先が触れ合いそうな程だ。
それを見ていれば、強いて割って入ろうなどとは思えない。タカヤに負担をかけることになるけれど、と思いながら、秋丸は言った。
「あー、俺はいいよ。もうちょい、先輩たちとも話したいし」
榛名は満足げにうなずいた。
「ああ言ってる」
タカヤはその榛名の言葉には取り合わず、もう一度、念を押すように、いいんですかとたずねた。
「タカヤには迷惑かけちゃうけど、そいつ、頼むよ」
「それは構いませんけど……」
まだ迷うそぶりのタカヤに秋丸は重ねて言った。
「榛名、ずっと待ってたんだ。だから、頼むよ」
すっと、タカヤの目が細められた。遠い何かを見るような目だった。もしかしたら、二人の4年間を今見ているのかもしれない。そんな風に秋丸は夢想した。
タカヤは頷いた。
店内に戻ると、外の空気が嘘のように、もうと温かい空気とざわめきが秋丸を包み込んだ。先輩の一人が戻ってきた秋丸を見て向かってくる。
「榛名、どうした?」
「タカヤが迎えに来たんで、まかせました」
先輩はそれを聞いて少し目を丸くしたあと、笑った。
「なんだ、やっぱり仲いーんじゃねーか」
そうですね、と秋丸も合わせて笑う。
仲はいいんです、特別に。
中途半端にしか酔いの覚めない頭には、時間は飛び飛びに感じられた。タカヤにしがみついていた、と思っていたら、まばたきした次の時には、タカヤの乗ってきた車のシートに身を沈めていた。
鼻先を他人の家の匂いがくすぐる。数年前に何度かタカヤの家に訪れた時にもかいでいるはずだが、今のこの匂いと、その時の匂いが同じものなのかどうかまでは、榛名には分からなかった。
「シートベルト、してください」
いつの間にか運転席に乗り込んでいたタカヤがそう言う。緩慢な仕草で、榛名が首を巡らせてベルトの先を探していると、呆れたようなため息がそばで聞こえた。
密閉された空間の中では、息の流れはやたらに密度の濃いものに感じられる。タカヤが揺らした空気が見えそうなほどだった。
シートが軋む音がする。何かと思ったら、タカヤが榛名の側へと身を倒し、手をのばしてきた。タカヤのジャケットの裾が榛名の膝を擦る。首筋の肌色が目の前で踊った。先ほど榛名が顔をうずめたその場所は、初冬のこの季節でも日焼けのあとを残している。
タカヤの腕が榛名の肩に触れた。幾重もの布越しでは、はっきりとした筋肉の形など知りようもないが、高校の頃と比べれば、さすがに幾分がっちりしたようだった。
カチリと音がして、体がシートに固定される。榛名のシートベルトを締め終えてから、タカヤは自身もベルトを締め、片手をハンドルの上に添えた。
「出しますよ」
榛名はぼんやりと視線を投げてタカヤを見た。それを了承の合図と受け取って、タカヤは車を発進させる。最初の信号待ちの間に、タカヤはちらと榛名を見やって言った。
「あとで起こしますから、寝てていいですよ」
その言葉に従うわけではないが、榛名は目を閉じた。低いエンジンの音、流れていく景色を切って進む時の風の音が窓越しに聞こえる。他人の車に乗ることなど初めてではないのに、なぜだかこの車内での一つ一が、新しく感じられるのが不思議だった。
なぜ、タカヤは運転などしているのだろう。
榛名には不思議だった。だって、ついこの間まで、こいつは小さくて、小さくて、とんでもなくガキだったはずだ。
そう考えたら、確かめなくては、という思いに駆られて、榛名は再びまぶたを開いた。