その夜は泣いていた
「じゃーん!」
後ろに回していた手を前へ出して、タカヤの眼前に突きつける。
榛名はどきどきした。早くタカヤの声が聞きたい。とっておきのものだから、一番に見せたいと思って、無理に呼び出したのだ。
タカヤは慎重に目の前のものに視線を走らせ、それが何かを理解すると、ゆっくりと顔を上げた。
「……プロ志望届?」
「おー、今日、練習のあとに監督に呼ばれて渡された」
先ほどじっくり見て分かっているはずなのに、タカヤは再び榛名の持つ紙きれにじっと視線を注いだ。
身長差があるせいで、榛名はタカヤを上から見下ろす形になる。伏し目になったまぶたの影がやけにくっきり見えて、まばたきをする度にちらちらと踊る影に目を奪われた。
タカヤは真剣に、それこそ紙に穴が開きそうなほどの熱心さで見つめていた。
「触らしてやってもいーぞ」
榛名がそう言うと、タカヤはつっと視線を上げた。
「……別にいいです」
「エンリョすんなって」
「遠慮とかじゃないです」
口ではそう言うが、榛名が、ん、と紙を押し付けるとタカヤはどこかこわごわとした手つきでそれを受け取った。
「普通に、紙ですね」
真面目な口調でそう言うので、思わず吹き出してしまう。
「そりゃそうだろ」
将来の進路を決める役目を担っているとはいえ、それ自体はただの紙だ。そのただの紙をどうしても最初にタカヤに見せたかったのは、言葉が欲しかったからだ。タカヤの視線が紙切れから外れないので、榛名はそわそわと体をもぞつかせた。
「なんか言う事、ねーの」
堪えきれずに言葉をねだれば、タカヤが顔を上げて平坦な声で言った。
「これ出したからって、プロになれるって決まったわけじゃないでしょ」
「お前さ、なんでそうかわいくねーの?」
しれっとした表情でかわいげのない台詞をはくタカヤに、思わず榛名は頬を膨らませた。
こういう時、タカヤは変わった、と榛名は思う。シニアの頃ならば、きっと榛名が手渡した紙を見ただけで、きらきらと目を輝かせて、すごい、と言っただろうに。
今のタカヤは、たとえとびきり嬉しいことがあっても、努めて表情には出さないようにしている。他の人間の前ではどうだか知らないが、榛名に対してはそうだった。よくよく見れば、無表情を装った肌の下で、喜びがざわめいているのはわかるから無駄なのに。
タカヤの言うとおり、志望届を出すことがイコール、プロ入りではない。けれども、こんな時くらい、もう少し素直に言葉をくれてもいいのに、と思う。
「嘘ですよ」
タカヤの顔は相変わらず無表情に近かった。
「元希さんがプロの世界で投げてるの以外、俺には想像できません」
そのくせ、言葉は甘すぎるほどに甘い。榛名はすっかり参ってしまった。
「なー、キスして、いー?」
榛名が言うと、タカヤは少し嫌そうに顔をしかめた。あ、ひでえ、と榛名は思う。
「……なんで聞くんですか」
「え、なんとなく」
キスが、ではなくて、許可を求めたことが嫌だったのだろうか。タカヤは時々ほんとうに分からない、と榛名は思った。
「外ですよ」
「いいじゃん。誰もいねーし」
タカヤは迷う目をした。もう一押しだ。こういう目をしてる時は、もうほとんど、いい、と言っているも同然なのだ。
「タカヤ、したい」
重ねて言うと、タカヤは観念したように目を閉じる。榛名は嬉しくなって、ぐっとタカヤの体を引き寄せた。
乾いた汗のにおいが鼻をくすぐる。男の体臭など、うれしいはずがないのに、タカヤのそれは榛名にはただ懐かしく、愛しいだけだった。
「こんなの、今ぐらいしかできないもんな」
唇が触れる間際にタカヤがそう呟く。
なんだ、それ。人が来ないうちにってことか?
榛名の頭を疑問がかすめたが、すぐにどうでもよくなってしまった。触れたタカヤの唇があまりに気持ちよかったので。
遠慮がちに体を揺さぶられる。元希さん、元希さんと呼ぶ声がする。
榛名が重いまぶたを持ち上げると、目の前にタカヤの顔があった。夢の中のものより、少し頬の線が鋭くなっているように見える。
「着きましたよ。降りられますか」
榛名が眠っている間に先に降りたらしいタカヤが、助手席側のドアから覗き込んでそう尋ねる。
「……ん」
榛名はのそのそとシートベルトを外し、外へと足を踏み出した。眠っている間に少しは楽になるかと期待したが、むしろ車に揺られるうちに酔いが戻ってきてしまったようだ。ひどく気分が悪い。
大きな靴を柔らかに受け止める下草の感触が優しかった。 歩を進めると、ぐうと吐き気がこみ上げてくる。まだ視界が少しぼやけており、見覚えがあるはずのタカヤの家も、暗闇の中ではよく分からなかった。
榛名が降りたのを見届けたタカヤは、車のドアを閉め、足を速めて玄関先まで向かった。カチャカチャと音を立てて鍵をあけているタカヤの後ろ姿を、榛名は眺める。
記憶にあるものより、少しだけ伸びた身長。けれども、抱きついた体からは昔と変わらぬタカヤの匂いがした。
扉を開けたタカヤ振り返って榛名を待っている。榛名の長い足を使えばすぐにたどり着ける距離しかないのに、ひどく遠く感じられた。
キスをしたのは、多分、あれが最後だった、と榛名は思い返す。
あれからすぐ榛名も阿部も多忙になってしまったし、元々、会ったからといっていつもいつもキスをしていた訳でもない。はまってしまいそうな自分たちが分かっていたから、お互いに暗黙の了解のように、抑えていたのだ。
最初に好きだと告げたのは榛名の方だ。高校で再会してからは、いつもいつも、榛名の方がタカヤのことを好きだった気がする。会いたい会いたいというのも、まだ離れたくないから帰るなというのも榛名の側だった。
タカヤは始め、そんな榛名にただ戸惑っていた。どうして榛名が、自分にそんなに執着するのか分からないという顔をしていたし、実際口に出して問われたりもした。
そんな時、榛名はいつも、だって、好きなんだから、しょうがないと答えたものだった。
その答えに、戸惑うばかりだったのが、いつしか甘く困った表情を見せるようになり、そのうちに問いかけはなくなった。タカヤが榛名の気持ちをきちんと理解した頃、ようやく初めてのキスをした。