その夜は泣いていた
最初のキスの時、唇が離れたあと、タカヤは手の甲を先ほどまで榛名が触れていた部分に押し当てて、うつむいた。
こんがりと日焼けした肌が隠せないほどに赤く染まっているのを見て、きっと自分も同じようになっているのだろう、と榛名は思った。
どうしよう、と胸の中でつぶやく。まるで耳のすぐ側で心臓が音を立てているように、どきどきとうるさい。きっと体中の血が今全速力で駆け巡っているのだ。指の先が熱くて熱くて、握り締めた手は汗で濡れていた。
どうしよう、と榛名はもう一度心の中で思った。幾度もした妄想なんて比べ物にならないほど、タカヤの唇の感触は榛名を動揺させた。
キスをする前まで自分はタカヤのことを相当好きだと思っていたが、今は、そんなものでは全く足りないほどに、タカヤだけだった。
「俺……」
長くうつむいていたタカヤが顔をあげて口を開く。目が合った瞬間、周りの空気さえ変わった気がした。今この世界には自分とタカヤしかいない。そんな風にさえ思える密度の濃さに、榛名はめまいがしそうだった。
「俺、元希さんの野球が、好きです」
タカヤは口に当てていた手を外しはしたものの、顔は赤いままだった。
「俺の一番は、野球です」
タカヤの言うことは榛名にはよく分かった。自分にとっても、何より大事なものは野球だと言える。けれども、それとタカヤへの気持ちをうまく切り離して胸の中におくことが出来ない。
「だから、こういうのは……」
タカヤが最後まで言う前に、榛名は手を伸ばしてタカヤの腕をぎゅっと掴んだ。
「怖い、か?」
榛名の問いに、タカヤは少し震えたあと、頷いた。
「怖いです」
好きで好きでどうしようもない。他が目に入らなくなってしまいそうだ。
「俺も、怖い」
握る手の平にまた少し力がこもる。
「けど、もっと、してーってのも、思ってる」
タカヤは堪えられない、とでも言うようにまた唇に手の甲を当てた。それだけで、タカヤも同じ気持ちなのだと分かって榛名の心が震える。
「……困りました」
「うん、困ったな……」
それから、二人とも黙り込んでしまって、いい加減帰らなければならない時間まで、ずっと馬鹿みたいに、弱り顔で一緒にいた。
あの頃、野球がなにより大事で、それなのに、口付けひとつで全て忘れて夢中になってしまうのが怖かった。両方選べる器用さは無かった。子どもだった。
それから、真剣だったのだ。真剣すぎて、それ以外の道が見えないほどに。
榛名は、重い足をなんとか動かして、ようやく玄関先の敷石まで辿りついていた。
「タカヤ」
かすれた声が漏れた。頭は両側から締め付けられるように痛み、喉元まで吐き気がせり上がってきている。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
それだけで頭がいっぱいになる。タカヤが心配そうに眉をひそめた。それから、榛名の方へ一歩足を踏み出したところで、榛名は嘔吐した。
ドラフトで榛名が指名を受け、プロ入りが決定したその日も、榛名はタカヤを公園に呼び出した。前の時よりも更に遅い時間だったが、タカヤは言われたとおりにやって来た。
一度家に帰ってきたのだろう。見慣れた制服ではなく、似合わない私服を着ている。タカヤは、いつも母親が買ってきた服を適当に、それこそクローゼットに入っている順番で着るので、どうにもへんてこな組み合わせになってしまっていることが多いのだ。
普段であれば、そんなタカヤの姿をからかうこともあるのだが、この日の榛名にそんな気持ちの余裕はなかった。
呼び出しておいて、何もしゃべらずに見つめるばかりの榛名を、タカヤはただ黙って見つめかえしていた。何も言わないのに、大丈夫ですよ、わかっていますよ、と言われているような心地になる。
何度か大きく深呼吸をして、榛名はようやく口を開いた。
「あのな」
はい、とタカヤが小さく答える。学校でドラフト会議の結果を待っている時はむしろ落ち着いていたくらいなのに、今になって緊張しているのが自分でもおかしかった。
「おれ、決まったぞ。プロになる」
口に出した瞬間、遅まきながらの実感が急にこみ上げてきて、榛名は興奮した。
そうだ、プロになるのだ、自分は。
榛名の告げた言葉に、タカヤはゆっくりとまたたいた。それからまた小さく、はい、と答えた。
「見ました。ニュースで」
タカヤはそう言ったあと一度目を閉じた。風が行き過ぎて、前髪が少しだけ揺れる。むき出しの首筋が寒そうだな、と榛名は思った。
タカヤが再びまぶたを開いた時、その目には涙が浮かんでいた。
「おめでとうございます」
榛名は、タカヤの涙から目が離せなかった。こみ上げてきた水は、ゆっくりと水滴の形になって、やがて頬を滑り落ちていく。
こんなに綺麗なものを、見たことがない、と思った。
一番だった。これまで榛名が生きてきた中で、一番の綺麗なものだった。
その時の気持ちを言い表すならば、感動した、としか言いようがなかった。誰かが、自分のことを、これほどに思っていてくれること、それをこんなにも見て、感じて、榛名の胸には暖かで熱い波が押し寄せていた。
だから、タカヤが次に続けた言葉は、榛名にはまったく理解できないものだった。
タカヤは榛名のプロ入りを誰よりも喜んだ、その美しい表情のままで、別れましょう、と告げたのだった。
気がついた時には、榛名は上半身が裸になった状態でタカヤの部屋にいた。おぼろげな記憶に、タカヤに介抱されたことを思い出す。庭先で水をもらって口をすすぎ、服を脱がされて濡れタオルで顔や体を拭かれ、それからタカヤの肩を借りて階段を登った。
吐瀉物はタカヤの服にまでかかってしまっていたので、タカヤは自分の服を着替え、洗濯物を片付けるために階下に降りてしまっている。
榛名は、もう体を起こしているのも億劫で、床に転がったまま動けなかった。それから、今日タカヤに会えたことと、会えなかった四年間のことを思った。
目標としていたプロの世界で過ごしたその時間は、とてつもなく濃いものだった、と思う。ずっと昔から、目指してきた場所だ。プロ入りする前から下調べや情報収集はして、その厳しさは知っているつもりだった。けれども、見たり聞いたりするのと、実際に体験するのでは、まるで違う。
榛名はそれまで、自分の野球に手を抜いたことはないし、いつも考えうる最高のレベルで努力をしてきた、と考えていた。それでも、プロのレベルはそれまでの榛名の最高など軽く上回っていた。