その夜は泣いていた
一年目はとにかく必死だった。まずはシーズン通してプロの世界で戦っていけるだけの体作りから始まり、半年の間はブルペンに入ることも出来なかったくらいだ。シーズン中は試合で登板することもなく、シーズンを終えたあとのフェニックスリーグでようやく先発の機会を得た。
二年目からはファームでの試合にちょくちょく登板するようになったが、まだまだ実力が足りず、好不調の波が激しすぎ、満足な成績は残せなかった。
一年目、二年目の成績で見放されなかったのは、左腕であることと、伸びしろを期待されてのことだった。十代や二十代の前半で戦力外通告を言い渡される者もいることを考えれば、幸運だったと言えるだろう。あるいは、幸運を掴み取るだけの努力をしてきた、とも言える。
ようやく手ごたえを得られるようになったのは、三年目に入ってからだ。プロの世界での生き方にも馴染み、それまでに積み重ねてきたものを形として表すことが出来るようになった。その年の榛名は、イースタン・リーグでタイトルを取るほどの活躍を見せ、四年目からの一軍昇格を手に入れた。
そして、今年。新たなる左腕エースの誕生と世間では騒がれている。
榛名は、試合に出るほどに、登板を重ねるほどに、自信をつけていった。プロの世界でやっていくのだ、という確信を得たことが、榛名の力を更に増していった。
充実していた、と思う。プロの世界に入る、という目標を達成し、今はまた新たな目標も掲げている。そのためにやるべきことは沢山あるし、もとより努力を惜しむつもりはない。充実していた、なんて過去形で終わらせる気はない。今も、これからもずっとそうしていくのだ、と考えている。
ただ、その日々の中で、タカヤだけがいなかった。榛名の中で、その不在が埋まることは、四年という月日が経っても、なかったのである。
あの日、タカヤが別れを切り出したのは、初めてキスをしたあとに言ったのと同じ理由だった。
野球を一番にするため。榛名が目標に邁進するために、余計なことを考えずにすむように、別れようとタカヤは言ったのだ。
男同士である、ということも言われた。例えば自分が女であったら、高校時代から付き合っている恋人がいる、となっても微笑ましく思われる程度だろうが、実際は男なので、そうはならない。きっとスキャンダルになるだろうし、そんなことで榛名のプロでの活躍が阻害されるなど、絶対に許せない。
語るタカヤの声は真剣そのものだった。
「元希さんの野球がすきなんです」
最初に会った時から、ずっと。
とんでもなく憎んで、あんたの野球なんか認められないって思ったこともあったけど、でもずっと、好きなんです。
「元希さんの野球を、プロの世界で見たいんです」
榛名は、いくらでも、反論の言葉は浮かんだ。付き合いを続けていたって、練習をおろそかにすることなんて絶対ない。これまでだってそうだったし、これからもそうする。
男の恋人がいるっていうのも、ばれたら騒がれるだろうけど、ばれないようにすればいい。
やる前から、駄目だなんて決めるのは、俺らしくも、お前らしくもない。
けれども、結局はタカヤの言葉に頷いたのは、あの涙を見たからだった。自分以上に、誰かが自分のことを思うことがあるのだと、あの時榛名は初め知った。
榛名のために、あれほど綺麗な涙を流すタカヤの言うことなのだから、それが正しいのかもしれないと、そう思った。自分に出来るのは、あの涙に応えて、プロの世界で活躍することだと思った。
それが、四年前の別れの真相。榛名はタカヤを好きなまま、タカヤも榛名を好きなまま、さようならと言ったのだった。
扉がひらく音がして、タカヤが部屋に入ってきた。床に寝転がっている榛名を見て、すぐそばに膝をつく。
「寝るなら、ベッドに行きましょう、元希さん」
体が痛くなったり、風邪を引いたりしたら、困るでしょう。オフシーズンだといっても、練習はあるんですから、と言って、手を伸ばしてくる。
榛名はその手を掴んで、そのままぐいと引き寄せた。あ、と短い声を上げて、タカヤの体が覆いかぶさってくる。榛名には、小さくも細くも感じるその体を、両腕使って抱きしめた。裸のままの肌に、タカヤの身につけた薄いシャツがこすれて、それからじわりと体温を伝えた。
「タカヤ」
腕の中のタカヤは抵抗はせず、名前を呼ぶと、はい、と静かに返事をした。
そのにおい。そのあたたかさ。その声も、全部、全部、もうずっと好きだった。
感情がこみ上げてきて、つんと鼻が痛くなる。どうしようもなかった。堪える間もなく、涙があふれてくる。
「あん時、おれ、お前の言うのが正しいんだって、思った。別れるのも、ちゃんと納得してそうなんだって」
涙は眦からこぼれて肌を伝っていく。耳の中に入り込んで、その生ぬるさが気持ち悪かった。
「けど、おれ、好きだ。タカヤが好きだ。好きなんだ。」
まるで頑是無い子どものように、榛名は好きだ好きだと繰り返した。
「なあ、お前、俺がプロで初めて先発した試合、球場にいただろ?」
榛名の問いに、タカヤが息を震わせたのが分かった。吐き出された息が胸にかかる。
「……いました」
「おれ、わかったぜ。お前がいんの。見えなかったけど、なんでか分かった」
タカヤを感じて、あの時どれだけ榛名の胸が熱くなったか、タカヤはきっと分からないだろう。どれほどの力強さを感じたか、知らないだろう。
「どうしたらいいのかとかは、わかんねー。けど、おれ、野球は一番で、それは変わんねーけど、タカヤんことも一番のまんまだった。あん時はおれ、お前の言うことにうんって言ったけど、今はもう嫌だ。タカヤ、好きだ。おれ、お前がすきだ。なあ、好きなんだよ」
言葉の終わりは、情けなくも涙で歪んで響いていた。泣けて泣けて仕方がない。腕の中にいるタカヤのことを、好きだと思う分だけ、全部涙になって流れてしまうんだ、と榛名は思った。
タカヤは答えなかった。それで、榛名はその時はじめて、タカヤがもう自分のことを好きでない可能性があることに、気がついた。もしかしたら既に他の大事な人間がいるのかもしれない。
なんだそれ、ひでー。俺は四年も、我慢したのに。
そう思ったら、もっと泣けてきて、もう涙は止まることはないのではないかと思えた。
「元希さん」
タカヤの声が榛名の肌に触れた。
「ベッドに行きましょう。ちゃんと寝なくちゃ」
いやだと榛名は答えた。だって、言う通りにしたら、きっとタカヤは榛名だけをベッドに寝かせて、自分はよそへいってしまうのだ。そんな榛名の心の声を見透かしたように、タカヤは言った。
「離れませんから」
「……ほんとかよ」
「はい」
「嘘ついたら、ゆるさねー」
「嘘じゃないですから、一緒に寝ましょう」
ね、と軽く体をゆすられて、榛名はタカヤを抱きしめたまま起き上がった。少しも離れたくなくて、くっついたまま歩くから、ひどく動きにくかった。
ベッドに入ったら、布団から大好きなタカヤのにおいがして、榛名はたまらなくなってしまう。横に寝転んだタカヤを抱き寄せ、涙の中で榛名は眠った。夢の向こうで、涙をぬぐう指先の感触が優しかった。