夏残
榛名が掴まえようと伸ばした手をふいとかわして、タカヤはそのまま、たったっと軽い音をさせて走り去る。その小さな後ろ姿を、榛名は憎いような悔しいような、置いていかれて淋しいような、そんな顔をして見ていた。
投げる球はやたらに荒い感じだったが、こうして見る横顔は馬鹿に繊細な印象を受けた。こいつは難しそうだ、と呂佳は瞬時の思う。
スカウト回りを続けるうちに、相手が口説きやすい人間なのかどうか、大体の判別が付くようになってきた。今まで会ってきた何人もの中学生たちの中でも、この榛名はおそらくかなり扱いづらいタイプだろう。
榛名は道の先に送っていた視線をふと外して、呂佳に向き直った。呂佳もよく人相が悪いだとか、顔が怖いだとか言われることが多いが、榛名もそれに負けず劣らず、中々の面構えだった。
榛名は、一応は話を聞く気になったのか、肩にかけていたバッグを道に下ろした。
「……で、何か用スか」
声に滲む警戒心を隠そうともせず、榛名は言った。呂佳は笑顔を作った。
「実はうちの弟がここのシニアクラブに入ろうかと考えてるみたいでね、でも中二の途中からじゃ、上手く馴染めるか不安だって言うんだよ。だからとりあえずどんな所か俺が様子を見にきたんだけど」
精一杯に愛想を良くしようとすると、自分ながら気持ち悪いとしか思えない猫なで声になった。榛名も同じように感じているのか、うさんくさそうな顔をしてこちらを見ている。
「監督さんに話を聞いたら、君も中二の秋にここに来たそうじゃないか。それで、是非話を聞かせてもらいたいと思ってね」
呂佳が口を閉じても榛名は黙ったままだった。榛名の身長は呂佳よりも幾分小さかったが、そのしなやかな体つきを見ていると、これからいくらでも伸びて行きそうに見える。生意気だった。
本当に話を聞いていたのだろうかと呂佳が疑問に思うほどの長い沈黙があって、榛名はようやく口を開いた。
「やりたいんだったら、来ればいい。けど、その弟とかっての、自分で来ないんなら、やりたくねーんだろ」
榛名の言葉は簡潔だった。野球をやりたいか、やりたくないか、その白と黒で世界が決まっていると信じているのだろう、と呂佳は思った。
うらやましいことだ。中学生の年齢なら、その単純でもやれるだろう。だが、自分はもうその二色の世界にはいられなくなってしまった。野球なんか見たくもねえ、なのにこうして関わっている。そんな呂佳のような人間もいるのだ。
榛名のその答えを聞いて、呂佳は、今日のスカウトのために考えてきたプランを捨てた。回りくどいのはナシだ。こいつ相手には、意味がない。
「なるほどね。最もな意見ありがとう。で、せっかく答えてくれたとこでわりーけど、今の嘘だから」
「はあ?」
「弟がどうのっての、全部口実な。ほんとの目的は、お前をスカウトしにきた」
声も言葉づかいも普段のものに戻したので、榛名は少し驚いた表情になった。
「美丞大狭山高校って知ってっか? 俺はそこの監督の代理でお前んこと誘いにきた。今年の夏大の成績は準々決勝で敗退。ま、そんな大したことねーけど、甲子園を狙えねえほど弱小じゃねえ」
自分で言いながら、呂佳は笑いそうになった。初戦で敗退した自分が、準々決勝まで進出した美丞を大したことないだのと、よくも言えたものだ。
「来年からのチームづくりで一番監督が心配してんのは、投手層の薄さだ。そこでお前のことは是非とも欲しいんだとさ。俺も見たけど、お前の速球は確かに魅力的だよな。そうそう投げれたもんじゃねえ。そん代わりコントロールはひでえけど、ま、どうにもできねーほどでもねえし、高校行ってから直しゃあいいしな」
誉めているのだかけなしているのだか分からないような言になったが、これが今の榛名に対しての掛け値なしの評価だった。
榛名は特別気分を害した風もなく、黙っていた。呂佳は一気に畳み掛けることに決めて、最高の手札を切る。
「美丞の新しく監督になるやつだけど、そいつ、中学の時に肩やってんだ。故障な。そっから、色々したみてえだけど、やっぱ駄目だってんで、高校ではマネージャーやってた」
ああ、顔色が変わったな。やはりここだったか、と呂佳は榛名を見下ろして考えた。
「あいつならお前を悪いようにはしねえよ。故障って、体が治って終わりじゃねえんだろ。そういうの、分かってるやつだからさ」
滝井は本当に頑張っていたようだった。マネージャーをしながらスポーツ医学だかなんだかにも手を出して、怪我をしないトレーニング方法や、リハビリについてなど、それは熱心に勉強していたのだそうだ。
「故障しちゃうとさ、変に気持ちがよじれちまうんだよな」
淡々とした声で語る滝井の言葉が呂佳の耳によみがえる。
「優しくされても、怪我したことねえヤツには俺の気持ちなんかわかんねえだろ! とかさあ。んなこと言ったってどうしようもねーってのは分かってんだけど、体が元の通りに動かないって、切ないんだよなあ……」
もう痛みを通り越して、乗り越えたような顔をしている滝井が、呂佳にはひどく遠く思えた。
「そういう切ない思いをするやつ増やしたくないし、腐っちゃう気持ちも、それだけじゃ駄目だってのも分かるからさ、だから俺、美丞の監督やるの引き受けたんだよ」
滝井が榛名に拘るのは、故障経験からくる部分も大きいのだろう。
思い出に引き込まれていた呂佳の耳に、あーあ、というため息が届いて、呂佳は夢から覚めた。
「あんた、来なけりゃ良かったのに」
榛名はつまらなそうに口をとがらせて、そう言った。
「俺、高校選ぶのに何個か条件考えてるんすけど」
「あ? ああ、そりゃあ、あるだろうな」
それまで黙って話を聞くばかりだった榛名が自分からしゃべり始めたので、呂佳は少しだけ動揺した。
「そのうちの一つが、スカウトしに来なかったとこ、なんすよね」
「……は?」
「だから、あんたんとこには行かねーってこと」
断られたのだ、ということに呂佳はなかなか理解が及ばなかった。だって、そんな馬鹿な理由があるだろうか。スカウトに来たからその高校には行かない、などと。
呆気に取られている呂佳の前で、榛名は顔をくしゃっと笑顔の形にしてから言った。
「しっかしよー、あんた、他のやつらにもそんな感じでやってんの?」
「そんな感じって、何がだよ」
「えー、自分で分かってねえの?」
榛名はおかしくてたまらない、といった表情で、ついにはケタケタと声を上げて笑いだした。しばらくは黙って見ていた呂佳だったが、あまりにしつこく笑い続けるのでさすがに苛立たずにはいられなかった。なんだ、このクソガキは。
「なあなあ、今までに誰かひっかかった?」
「関係ないだろ」
「あー、いねーんだ。そりゃそうだよなー」
榛名はそこでようやく笑いを納めた。
「あんた、野球なんてしたくねえ、嫌いだって顔、してんだもん。そんな顔でスカウトとか、まじ面白え」
どくりと心臓が大きく跳ねる音を聞いた。馬鹿な、と思う。そんな会って数分のやつに分かるほど顔に出してなどいないはずだ。
「やなら辞めちまえばいいのに」