かげしるべ
そう言い切る榛名に、意見を翻すのは難しいだろうと判断したタカヤは、わかりました、と息を吐いた。バッグの中から、封筒を取り出し、榛名の分の電車賃を手のひらに乗せて告げる。
「どうぞ。オレは残りますけど、元希さんは早く帰って体を休めてください」
考えてみれば、榛名のお守りというタカヤの仕事は、もう終わったのだ。二人がそろって帰る必要はなく、ここで解散して問題ないはずだった。
榛名は、片眉だけを器用に持ち上げて、タカヤを見下ろしたあと、小さくて硬い手のひらから小銭を受け取った。
「それじゃあ、お疲れさまです」
きっちりと深く身を折って、タカヤが挨拶をした。ちょうどその時、背後の球場からわあっと歓声が上がり、跳ね上がるように体を起こして、タカヤは振り返った。この壁のすぐ向こうに、野球がある。そう思ったら、もうたまらないのだ。
タカヤはもう一度軽く頭を下げると、入場口まで歩きだした。歩みが次第に速まるのは、仕方がない。受付で、先ほど買った入場券の半券を見せて、再入場しようとしたタカヤは、係員に、もう一枚は、と尋ねられて首をひねることになった。
「半券だけじゃ、再入場できないんですか?」
「いや、君はそれでいいけど、後ろの子の分」
「は?」
そこまでのやりとりで、まさかと思いながらタカヤが振り返ると、果たしてそこには榛名がいた。今朝と同じように、まるで人任せな様子で、今度は背伸びなどしている。
「なんで」
「監督から預かった金、まだあんだろ。出しな」
「だって元希さん、疲れたから帰るって」
「早くしろよなー。後ろに待ってる人いんだろ」
確かに榛名の言うとおりだった。タカヤは、頭の中で疑問符が渦を巻いていたが、榛名の分の入場券を買い、そろってゲートをくぐった。
「どこで見んの」
「一応、内野で探して見ますけど……」
「ふーん」
気のない声からは、とても榛名がこの試合を見たがっているようには思えなかった。なにが榛名の気を変えさせたのか、見当もつかない。この一つ年上の男の気まぐれは、タカヤには予想のつかないところを飛び回っているのだった。
通路を抜けてスタンドまで来ると、榛名は、お前が探せ、と短く言った。タカヤは首をめぐらし、しばらくあちこち歩き回ったあと、二人分の座席を確保して榛名を呼びに戻った。座席と座席の間隔が狭いこの観客席で、榛名と並んで腰を下ろすのは気が進まなかったが、他に空いていなかったので仕方がない。
座席へ向かう間、ワンナウト、ランナー二塁の場面で、右中間を破るタイムリーが出た。
思わず、タカヤの口から、おおお、という声が漏れ、目は生き生きとした光に輝いた。知らず、早足になって、緩い傾斜の階段を一つ飛ばしで下りていった。席に着くと、握りしめた両手の拳を、興奮のために何度も膝の上で跳ねさせていた。
続く打者にもヒットが出て、なおもワンナウト、ランナー一・三塁としたが、後続がそれぞれ三振と外野フライに倒れ、その回の攻撃は終了した。
攻守交代の段になって、ようやく榛名が隣にいることを思い出したタカヤが、そちらに目を向けると、榛名は、お前って、と言った。
「ほんと、バカで、しょーがねーやつ」
あんたに言われる筋合いはない、とタカヤは憮然とした。
5回の両者の攻撃が終わったところで、グラウンド整備が始まった。観客たちは、今のうちにと席を立ち、手洗いや売店へと移動している。日差しはますます強く、ただ座っていてさえ汗が出、喉が乾くほどだった。
それまで、榛名はといえば大人しいものだった。ほとんど見てはいないのではないかと思える位の静かさで、途中、タカヤは気を使って榛名に席の移動を勧めた。自分は、より近くで試合を見るためにこの席を動くつもりはないが、あまり試合に関心がないならば、この球場で唯一、日陰になっている、屋根下の席の方がいいだろうと思ったのだ。
しかし、榛名はタカヤの言葉に、めんどくせえ、とだけ返し、だらしなく脚を投げ出したまま、動こうとはしなかった。大きな体がすぐ隣で黙り込んで座っているのが気にはなったが、イニングが再開すれば、タカヤはまたすぐに試合の中に引き込まれてしまう。
榛名が騒ぎはじめたのは、グラウンドを均し終わり、散水が始まった頃合だった。晴天の下で撒かれる水流は、きらきらと光りながら、虹を作っている。プロ野球の試合とは違い、整備員ではなく、高校生たちが割り振りにしたがって整備を担当しているらしかった。彼らはみな、手慣れていない、というのがありありと分かる手つきで、ホースから飛び出す水はふらふらとよろめいていた。
「なー」
とがった肘でつつかれ、タカヤは、グラウンドから隣の男が指差す方へと視線を転じた。
「あれ食いたい」
示された先には、ビニール袋にパッキングされたかき氷を、おいしそうに食べる子どもたちの姿があった。確かに、この気温の中で、からからに喉を乾かせた身にとっては、ピンク色の氷はいかにもおいしそうに見えた。
「でも、もうすぐ再開ですし」
ここに来るまでに、いくつか売店を目にした気はするが、どこにかき氷があったかまでは気にとめていなかった。まず、売っている場所を探さなければならないことを考えると、試合再開までの時間に戻ってくるのは難しいだろうと思えた。
「元希さん、今欲しいなら、自分で買いに行ってくださいよ。オレは、まだ我慢しますから」
「やだ。オレ、今日はもう労働しねーの。タカヤ買ってきて」
「試合の後だったらいいですよ」
「いーまー! 喉乾いた干からびる熱射病でしぬ!」
先ほどまでの大人しさとはうって変わって大声を上げ始める榛名に、タカヤは閉口した。
これでは、本当に子どもではないか。どうかすると、小学生である弟のシュンの方がまだ聞き分けがいい、と思ってしまう。ふと周りを見ると、斜め後ろの席にいる年輩の女性がおかしそうにこちらを見ていた。タカヤは気恥ずかしさに少し頬を染め、もう、と言いながら席を立った。
「行ってきますよ! イチゴでいいんですね?」
「おー」
榛名はひらひらと手を振って応え、タカヤはそれに背を向けて小走りに売店へと向かった。
結局、タカヤがかき氷にありついたのは、三つ目の売店をのぞいた時だった。この暑さでは、皆考えることは同じようで、かき氷も、ペットボトル入りの清涼飲料水も、ひっきりなしに買い手が訪れていた。
しばらく列に並んだあと、二人分のかき氷を手にしたタカヤは、少しでも早く席に戻ろうと、せかせかと歩き出した。試合はとっくに始まっており、先ほどから、観客の歓声やため息が聞こえてきている。
キン、と響く打球音が耳に入って、タカヤはついそちらへと目をやった。青い空を横切るようにして、白いボールが飛んでいくのが見える。太陽がまぶしくて一瞬見失いかけたが、打球は一塁側の内野席に飛び込んでいったようだった。グラブを持って待ちかまえていた少年がダイレクトにキャッチをし、観客たちは笑みをこぼれさせ、拍手を送っていた。
よそ見をしながら歩いていたタカヤは、突然、前からどんと衝撃を受けて、声を上げた。驚いた拍子に、手の中の氷を落としてしまう。
「ああ、悪い」