花盗人と君は言う
雪国に雪深い時期引っ越すような奇特な人間は目立つ。だからなるべく、人里はなれた山奥にぽつんとあるような家を選んだ。隣家までの道のりは、五百メートルもあろうか。住人が引っ越して三年という家だったけれど、掃除をすれば十分に暮らしていけるようになったのが幸いだ。雪かきは帝人がして、買出しは車で臨也が請け負う。人相を隠すためにかけた眼鏡は臨也の容姿を周囲に溶けこませ、二人はまるでカメレオンの様に僻地の風景にピタリとはまった。
そうして生活が落ち着く頃にはもうすっかり、臨也は常に少年に触れていなければ落ち着かないほど愛しく思い、また少年も臨也に遠慮無く擦り寄るようになっていた。
ふたりだけの世界、介入するものは何も無い。
世間の常識も、モラルも、ブレーキをかける存在も無い。
唇を合わせたのは引っ越してすぐのころ。ぎこちなく重ねるだけだったその行為も、次第に恋人同士のそれと変わらなくなり、やがては貪るような熱烈なものへとかわる。言葉はなく、それでも視線が絡めば指先も絡んで、抱擁は愛撫へ、そして劣情へとなだれ込む。二人の間に告白はなく、初々しい空気もなく、関係は曖昧なまま、それでも肌を合わせて夜を共にし、融け合うように絡まった。二度とその手を離さぬように、きつく握り締めながら、何度も名前を呼んで、何度も唇を合わせて、何度でも抱き合って、ほんの少しでも触れていないと不安でたまらなくて。
多分、二人揃って恐怖に怯えていたのだろう。いつこの世界が崩壊するのか、いつこの関係が否定されるのか、怖くて怖くて、だから言葉にはできなかったのだ。
一ヶ月もたつころには、臨也は都会を思い出すことがなくなった。少年は、依存気味だったパソコンに触れる気配もなくなった。
そして、ある日ぽつりと、呟く。
「臨也さん、僕、もうすぐ死ぬんです」
その時の臨也の衝撃を、理解できる人間などきっと一人も居ない。
臨也は少年のために世界を捨てた。今まで歩いてきた道のりを、これから歩んでゆくはずだった未来を、手にしてきたつながりを、全部根こそぎ捨ててここに来た。それは生半可な思いで成し得ることではなくて、つまり、最初の最初から臨也は本気だったということだ。言葉をなくす臨也に、少年はぽつぽつと語って聞かせた。幼少の頃からそれは決まっていたと。最近では起きて動くことさえ億劫だと。だから駆け落ちしたかった、と。
あのままだったら年明けには入院になり、そのままきっと病院から出てこれなかっただろうと。
ごめんなさい、わがままを言いました。最後でいいから、あなたと一緒にいたかった。ふたりだけの世界にいたかった。愛されたかった、ただ、あなたに。
淡々と語る少年の声には温度がなく、それが故に臨也の胸に強く訴えかけるものがあった。覚悟を決めるとは、そういう意味だ。駆け落ちをしましょう、となんでもないように提案したとき、少年はその一言に命を賭けていたのだ。
ああ、ああ、これだからこの子はたまらない。これだからこの子は。
「怒って、いいんですよ」
少年は笑う。綺麗に笑う。
緩やかにほほえみを彩る唇に静かに触れて、臨也は小さなその体を抱きしめた。
知っていた。
情報屋なんて職業に、伊達についているわけじゃない。少年の持病、リミット、現在の病気の進行状況、症状、これからどうなっていくのか。
知っていた。
もうすぐ入院すること、最初に出会った時から体重が落ちてどんどんやせ細っていくその体、少年の幼なじみが守るように庇うように少年を気遣う意味、時折隠れて飲んでいる薬、ろくに食事を取れないときの、曖昧な微笑み。
知っていた、全て。
知っていて、それでも、なお。
「・・・馬鹿だな」
ぎゅうぎゅうと抱きしめたその体は、骨が浮き出るほど痩せて、それでもその目は光を失わないから。
「なんで俺が、駆け落ちなんかしたと、思うんだよ・・・!」
わがままを言ったのは臨也の方だった。最後の時間が欲しかった。最後でいいから、誰の目にも触れないように少年を隠してしまいたかった。ふたりだけの世界にいたかった。ただ、生まれてきて良かったと少年が笑えるくらい、愛して愛して愛して、愛の中に埋めてやりたかった。
次第に衰弱していくその体を抱いて、息苦しさに咽る唇を奪って、ふたりきりの世界で何時までも手を握って。そのまま少年が息絶えるなら、その最後の呼吸は臨也が奪ってやろうと、そうまで思っていたのに。
知っていた。
少年が自分に抱く気持ち、自分が少年に抱く気持ち。
知っていたんだ。
きっと少年がいなくなったらうまく呼吸ができない。
知っていて、なお、それでも。
「何でも言ってよ、何でもするよ。どうして欲しい?俺に、何を望む?何が必要?ねえ、」
子供みたいにぼろぼろと、大粒の涙をこぼしながら問いかけた臨也の胸の中で、少年は滲むように微笑んだ。荒廃した雪国の冷たい空気に混じって、広がる、どこまでも伸びやかなその少年の、笑み。
「ここで、春が、見たいです」
弱々しく、か細く。
けれども一本、きちんと芯が通った言葉。
「あなたと」
きっと気障でベタで、へたをすれば笑ってしまいそうな台詞を紡ぐ少年の唇は、やっぱり穏やかに微笑みを抱いて花咲くように鮮やかで。
とても、綺麗だ。
ここの春、と少年は言った。ただの春ではなく、ここの春、と。つまり少年は、憧れ続けた都会でもなく、育って来た実家でもなく、臨也の腕の中を選んだということだった。
歪な二人の心がきっちりと合わさって、歯車の回るように咬み合って、その瞬間に愛になる。飢えていた、求めていた、探していた愛が、少年の唇に存在していた。
それは、とても、綺麗な。
竜ヶ峰帝人というその少年は、ほんの一片、その一瞬の表情だけで臨也の心臓を鷲掴む。
感情の全てを根こそぎ奪うほどの、強烈なめまいを生む。
そういう、少年だった。
春が見たい、と少年の唇が零すので、臨也は情けないほど泣きたいような気持ちになって、窓ガラス越しに外の風景を見つめた。
「まだちょっと早いね、難しいかもね」
平静を装って返す声は震えて、何も無いふたりだけの部屋に歪な振動を生む。この声が揺らすのは、自分と少年の鼓膜、ただそれだけ。ほんの小さな共有点、それが今の二人を溶かし合わせるひとつの要素。
石油ストーブがヤカンの水を沸騰させて、しゅうしゅうと蒸気を吐き出すのを横目に見ながら、億劫そうに寝返りを打った少年がやせ細った手のひらで臨也の服の裾を掴んだ。
「そうですか、残念だな」
少年のか細い声は、それでも最初に出会った時からかわりなく臨也の耳に染みこんでは溶けて、心に降り積もるようだ。外はまだ、雪が降り続いている。鮮やかな紅い椿の花がぽたりと、白い雪原に色を添える光景は、まるで臨也の心象風景のようで。
臨也は、たまらず伸ばした手で、布団の中で眠たそうに揺蕩う少年の髪をすく。はらはら、指のすきまを抜けてゆく短い黒髪。ゆっくりと、何度も何度でも繰り返して、その肌触りをいつまでも憶えて居られるように。
ああ、愛しいな。何度でも繰り返す。愛しい、愛しい、愛しい・・・哀しい。
「梅の花、咲いたら持ってくるよ。あれは香りがするからいいね」
「花泥棒ですか」
「そう、花盗人でも気取ってさ」