レ・ミゼラブル
臨めなくても、
望まなくても。
敗者にも、勝者にも
加害者にも、被害者にも
人にも、兵器にも
誰にもひとしく、
朝は訪れる。
***
グアム基地に戻ると、珍しくエンタープライズが停泊していた。
予定にはない。補給のための一時寄港だろうか。久しい顔に会えたのは嬉しかったのだが、どこか気持ちは複雑だった。
この基地には、今ワシントンがいるからだ。
目が合った。一瞬心臓が跳ねた。
話し掛けるべきか迷ったが、その前に誰かに呼ばれたらしい。謝るように目を細められると、会釈をして立ち去って行った。
正直、呼んだ相手に感謝した。
長い廊下を歩く。重油の匂いが、鼻をかすめた。
昨日の記憶が頭をよぎる。こめかみの辺りが、軋んだ。
少し気分が悪かった。
ブリーフィングルームに入ると、そこには誰もいなかった。ため息が漏れる。時計の針の音が、やけに重く響いている気がした。
「HEY!フォートレス!」
ぎくり。身体が震えた。
振り返ると、そこには思わぬ反応に呆然としたヘルキャットが立っていた。
その彼が手に持っていたCOKEを、反射的に払い除けそうになった。
その黒さを、銃だと錯覚したからだ。
「…そ、そんなに驚くなんて…!」
ヘルキャットを認識すると、静かに右手を降ろした。
ゴメン、と小さく謝った。
「作戦終了したばかりだ。気が張っているんだろ」
部屋の奥から出てきたのは、ワシントンだった。
彼が持っていたコーヒーの匂いに、自然と肩から力が抜けた。
昨日と違う誰かの声。匂い。空気。
そうだ。掃討作戦は終わったんだ。
それを自分自身に理解させるように、深く呼吸をした。
「作戦?そういえばB29って、どこの部隊に出てんの?」
「召集時間だ」
興味を注がれた目をしたヘルキャットを、ワシントンが制す。
彼は、まるで他の何にも興味がないように、報告書を片手にコーヒーをすすっていた。
いつもどおりの彼だった。
ヘルキャットは時刻を確認するや、焦った様子で寛げていた軍服を整えはじめた。
「ワシントン、もっと早く言ってくれよ!」
ワシントン相手に意味はないと分かっているのに、そう悪態をついた。
時間に頓着がないのは、相変わらずのようだった。
ヘルキャットは、扉の前で思い出したかのように振り返ると、
「今度誰とのファイトだったか教えてくれよ!」
楽しそうに笑って、扉を叩き割るようにして出ていった。
返答できずに手だけ振った。
出会ったときから変わらない、ハリケーンのような彼に苦笑する。
扉が閉まって、力なく腕を降ろした。
ワシントンの目は、その一部始終を静かにとらえていた。
“誰”というのは、航空機のことだろう。ヘルキャットは零戦との戦闘を、いつも楽しそうに語っていた。それは、まるで彼自身の自慢話のようでもあったし。例えが合っているかは分からないが、まるで恋をしているかのように見えた。
「ありがとう」
相変わらず報告書から目を離していない様子のワシントンに、そう声をかけた。
「…何がだ?」
そっけなく言われた。
抑揚のない口調。まるで愛想がない。付き合いづらいと誤解されがちなワシントンだが、本当は驚くほどよく周りを見ている。
「…何でもない」
そして、それに気付かれるのを極端に嫌う。だから、何もないと言う彼に言葉を合わせた。
正直、ヘルキャットに自分の作戦内容は教えたくなかった。
ヘルキャットだけではない。艦上機には、誰一人自分の事は語らなかった。
「コーヒーおかわり要るだろう?」
書類の傍らに置いたコーヒーカップは、すでに空だった。
それは、自分への合図だと分かっていた。
無言は肯定だ。
マグカップを拾い上げて、隣に備え付けられている簡易な給湯室に向かう。
面と向かって言われたことはないが、ワシントンが自分の煎れたコーヒーを気に入ってくれていることは分かっていた。
最初は、まるで彼が何を考えているのか分からなかった。けれど根気よく言葉をかわし続けて、最近ようやく彼の言葉無き意志が、少しだけ分かるようになってきた。
ケトルの下で、炎がゆらめく。
チラチラと踊るそれを見るたびに、暗闇に浮かぶ赤を思い出す。
出撃するたびに、記憶の赤は別の赤に塗り替えられていった。
過去の惨劇から解放されるということは、同時に次の惨劇に囚われるということだった。
悲しみは深まって、疑問は積み重なって。正しい答えを追い求めて、出口のない迷路を彷徨い歩く。
作戦が終了すると、空から朝を見つめた。
そして朝が来るたびに、次の夜に怯えた。
その繰り返し。
終わらない、悪夢の繰り返し。
艦上機には、自分の任務は話せなかった。
どう思われるのか。軽蔑されるのが怖かった。
棚から自分のマグカップを出す。
思わず、指がその数を追っていた。知ったマグが、いつの間にかひとつ減っていた。
鉄製のマグが音を立てる。
お湯を注いで、ゆっくりとドリップした。
艦上機が相手をするのは、同じく戦闘力を有した兵器であり、突き詰めれば軍人だ。優劣はあっても、どちらも同じ条件の者同士だ。
けれども、自分の相手はそうではない。
自分の最大の標的は、戦闘力を持たない一般市民なのだ。
それも、一方的な虐殺に近かった。
円を描くようにドリップする手が、少し震えた。
枯れたはずの涙が、また流れてきたからだ。手を止めて、ケトルを置いた。
泣き腫らした目でも誰にも気付かれないように、サングラスをかけた。
それが自分の任務だから。と、必死に自分を保ってきた。
それでも、感情までは割り切れなかった。
小さな給湯室でひとりきり。
今だけだからと自分に言い聞かせて。
声を殺して、静かに泣いた。