For Letter Words
ロシアからの手紙は、徐々に間遠になった。ヨーロッパ中を巻き込んだ大戦争で、どこもかしこもごたついていたし、ロシアの国内は、もはや隠し遂せないほど疲弊していることが、この戦争で一層明らかになっていた。そしてロシアはポーランドからの大撤退の後、一切返事を遣さなくなった。前年には二度の革命がロシアを襲ったと言う。詳細な情報は、イギリスへは故意か過失か、齎されなかった。或いはイギリスが意図的に耳に入れなかったのかもしれなかった。軍や諜報機関がロシアの情勢を掴んでいない筈が無い。ロシアへの書きかけの手紙は、だから長らくイギリスの書斎の机の中に仕舞い込まれて、日の目を見ていない。
そう言えば今日はまだ銃撃の音を聞いていない、と気づいて、見上げれば月のない夜空で、敵に標的にされる心配もあるまいと、イギリスはそろりと塹壕を出た。もう長い間、前線の塹壕をあちこち転々として、本国にさえ帰っていない。塹壕戦は、これまでヨーロッパの誰にも経験のなかった戦法だ。遅々として前に進まぬ戦線に、皆が疲弊している。陰鬱で湿気の多い塹壕は、それだけで戦意を殺ぐ。それでも、初めはもっと早くにドイツの戦線を突破できると思っていた。だからイギリスとフランスの軍はごく簡単な塹壕しか掘らなかった。一方、ドイツ軍のそれは、予想を遥かに超えて頑強なものを構築していた。
「……畜生、」
小さく呟いて、イギリスは深呼吸をした。冷気と、金属と、火薬と、機械油、それに古い排泄物の臭いが混じった空気が肺に充満する。この悪臭にもすっかり慣れてしまった。夜の清涼さなど、どこにもない。塹壕を見下ろす小高い丘に登って、イギリスは遠くに灯火の漏れ見えるドイツ軍の前線を見渡した。懐からスキットルを取り出し、残り少なくなったウィスキーを舐める。ぴりりと舌を焼くアルコールに、身も心も委ねたい衝動に駆られたが、生憎量が全く足りなかった。代わりに虚空に向かって叫ぶ。
「さっさと撤退しろよクラウツ野郎ども! 畜生、畜生……!」
横に長く、長く伸びた両軍の前線の灯火がじわりと歪む。この光のどこかに、フランスもドイツもプロイセンもいるのだ。叫ぶ口からは、白い息が白煙のように立ち上った。
「糞アメリカ! 宣戦布告出したんだったら早いとこ兵隊よこせよ馬鹿野郎!」
夜陰に声だけが空しく響く。
「馬鹿ロシア、さっさと自分だけ一抜けやがって。戻ったらただじゃおかねぇ!」
気炎を上げてみたものの、直ぐに悄然と、無事戻れたらの話だがな、と言い足す。実際、自軍は限界に達していると思った。うんざりと前線に目を戻す。と、遠く暗闇に蠢く気配を感じて、何事かと目を凝らした瞬間、さっきまで自分の居た辺りが爆発炎上し、突如として戦端が開かれたことを知った。ドイツ軍の夜襲だ、走り出し、そして十歩ほどで立ち止まった。
地面に膝を突き、空を仰ぐ。吸い込まれそうな夜闇から、綿屑のような雪が、まるで自ら光を放つようにちらりちらりと舞い降りて来る。
もう駄目なンかなあ、と弱音を呟いたが、天を仰いだ顔を元に戻すと、イギリスはキッと表情を引き締め、足元の雪を掬って顔にぶつけた。皮膚を切るような冷たさが顔面を覆う。解ってる、やってやるさ、最後まで。そう低く呟いて、イギリスは塹壕に向かって丘を駆け下りた。
状況が好転する兆しが見えたのは、冬が明け春も盛りを過ぎてからだった。アメリカ軍がとうとう西部戦線の前線に到着したのだ。同時にシベリアへも日本と示し合わせて出兵したと聞いたし、自軍の一部もシベリアへ投入されたと聞いたが、イギリスの心は麻痺したように何の反応も示さなかった。
最早ロシアは嘗てのロシアではないのだと、断片的に耳に入る噂話や、前線にやってきたアメリカからの話で聞いていたためかも知れず、或いはそれを受け入れたくないのかもしれなかったが、イギリスにはそれを判断する気力も残っていなかった。
作品名:For Letter Words 作家名:東一口