あのひと(前)
三橋はもう一度、ありがとうと言った。そして、それから、でも、と続けてこう言った。
「榛名さんは、なんか、じゃないよ。阿部くん。」
榛名なんか、じゃない。三橋ははっきりとした声音で言った。
「阿部くんは、ほんとうに榛名さんを、なんか、って思ってるの?」
榛名さんを、どう思ってるの?
そう大きな声でもなかったのに、三橋の問いはしんとした廊下では嫌に響いて聞こえた。三橋には、先ほどのロードワークの途中でも、榛名をライバルだと思っているのかと聞かれた。思わず思い切り嫌そうな声を出してしまうほどに、三橋のその言葉は阿部には不本意なものだった。
ライバル、なんてものとは多分違うだろうと思う。三橋と叶の場合とは違って、阿部と榛名では捕手と投手でポジションも違う。それに、三橋が叶に対して抱くような綺麗な感情では決してない。
榛名に、負けろ、なんて思わない。そんなことを同じ野球をやっている相手に思うのは、阿部のモラルが許さない。
西浦高校に進学を決めた時、博打なのは承知の上だった。野球で上を目指したいなら、もっと他に選択肢があるのは十分わかっていたが、それでも阿部は、可能性にかけた。監督の百枝や田島や他のチームメイトたち、それから三橋。阿部の予想以上に、西浦はいいチームになっていた。
夏大はベスト16で終わったが、後悔はない。怪我をして途中退場してしまったのは、今思い返しても悔しくてたまらないが、後悔なんてするより、他にやるべきことはいくらでもある。そう思っていたのは嘘じゃない。
けれども、こうして、自分たちが敗退して、榛名がまだ戦っているという状況に実際に直面すると、どうしようもなく腹が気持ち悪くなってしまうのだった。しないはずの後悔の念まで持ち上がってきて、自分の情けなさに腹が立ってくる。
榛名が野球の名門高校に行ってその結果ならば、ここまで複雑な心境にはならなかっただろうと思う。しかし、榛名は、阿部が西浦に賭けたのと同じように、武蔵野第一高校に賭けた。そして、今も賭けに勝ち続けている。榛名自身の力で。
阿部は、ぎり、と歯を噛み締めた。悔しくてならない。阿部にとっては、決して認めたくないような「最低の投手」なのに、名門野球部にいようが、弱小野球部にいようが、榛名の強さは揺らぐことがないのだと思い知らされるのが嫌だった。
答えを返せないでいる阿部を三橋は見つめていたが、不意にびくりと体を震えさせて飛び上がった。同時に、低い振動音とアラームが聞こえる。三橋はポケットから携帯電話を取り出すと、アラーム設定を解除した。
「じ、時間、だっ」
別メニューをこなしている二人が、他の部員と合流する時間になっていた。阿部は、おう、行くぞ、と三橋の頭を軽く叩いて歩き始める。遅刻は勿論厳禁なので、少し早足気味に歩く。本当なら駆けていきたいところだが、まだ阿部の足はそこまで無理をさせられない。
阿部に合わせて隣を歩く三橋の足音と、阿部の足音は少しだけずれて聞こえた。榛名をどう思っているのか、と聞いた三橋の声と、投手をなんだと思っているんだと問うた父の言葉が、ぐるぐると頭の中で渦をまく。
そんなの、わっかんねーよ、と阿部は舌打ちをしたい気持ちだった。
阿部と三橋がグラウンド辿りついた時、丁度他のメンバーたちも休憩中だったようだ。日陰になっているベンチに集まっている。
「うーす」
「た、だいまっ」
二人が声をかけると、おー、だとか、おかえり、と言った声が返ってくる。
「何やってんだ?」
阿部と三橋を除く8人が、揃いも揃って円になり、その中心を覗き込んでいる。いくら日陰だとはいっても、あれだけ寄り集まれば暑苦しいだろうに、と阿部が思っていると、待って阿部、今いいとこ! と水谷が叫んだ。
「はあ?」
疑問に思って、阿部は部員たちの頭越しに円の中心を覗き込む。丁度その時、みんながいっせいに詰めていた息を吐き出したので、阿部はぎょっと目を丸くした。
「あー、1点かあ」
「ダメ押しでもう1点欲しいとこだよな」
口々にしゃべり始める様子を、一体なんだと疑問でいっぱいの顔で阿部が見ていると、花井が振り返って言った。
「試合の中継見てたんだよ。ほら、武蔵野第一と春日部市立の」
そう言って花井は、見えやすいように真ん中に置かれていた誰かの携帯電話を指し示した。今は中継は中断してコマーシャル中らしく、試合の様子は分からない。
武蔵野第一、と聞いて、阿部の顔は少しだけ強張った。
「阿部! ハルナ出てきてるぞ!」
田島がそう言って顔を輝かせた。
「8回に投げてたのなんか、もー、すっげかった! あー、俺も打ちてえー!」
そう言って叫ぶ田島の横で、あれ見て打ちたいって思えるのがすごいよなあ、なんて沖と西広が苦笑している。
「な、どっちが勝つかな」
「勢いでは武蔵野だけど、地力は春日部のがちょい上って感じだからなあ。1点ぐらいすぐ返しそうだぞ」
「榛名からは点取れてねーじゃん」
「や、けどさ。榛名、まだ投げんの?」
泉のひと言に、わいわい騒いでいたメンバーは、あ、という表情になった。
「80球で絶対マウンド降りるやつなんだろ? 先発ピッチャーはベンチ下げずにライトに残してるんだし、次の回でまた代えるかもしんねーじゃん」
皆は顔を見合わせた。
「何球投げてた?」
「数えてねー」
「三回の途中からリリーフだろ。えーっと」
「でもさあ、正直、春日部の打線抑えられてんのって、榛名が投げてるからだと思うぜ。1点差で代えんのは怖えーよ。わざわざそんな危ない橋渡るかあ?」
「ま、フツーはしねえよな。なあ、阿部、お前どう思う」
それまで渋い表情で話を聞いていた阿部に、泉は聞いた。
「……なにが」
「これから十回裏、春日部市立の攻撃。4対3で武蔵野がリードしてる。この場面でも、80球がきたら榛名は降りると思うか?」
ぴりりと緊張がその場を走り、皆、無意識に息をつめていた。阿部は重たげに口を開く。
「知らネエ。バッテリー組んでたのなんか一年ちょっとだし、今のアイツが何考えて球放ってんのかなんか、分かるわけねーだろ」
大体、バッテリーを組んでいる間でさえ、榛名の考えていることなど、分かりはしなかった、と阿部は思い返す。分かっていると思ったのは幼い自分の思い上がりだった。あの自分勝手な投手と、少しでも心が通じたように思ったのは、全て錯覚だったのだ、と自嘲的に思った。
「夏大のこれまでの試合はどーだったんだ?」
田島が大きな瞳をくりっと見開いて尋ねた。阿部が答えを知っているのを疑わない表情だ。事実、怪我をして自宅療養中に、阿部は夏の大会の様々な試合のデータを調べていたので知っている。武蔵野第一の試合も、勿論その中に含まれていた。榛名がいるから、特別調べたわけじゃあない、と阿部は胸の中だけで言い訳のようなことを呟いた。
「いつも通りだよ。四回からのリリーフで、まだ榛名が80球以上投げた試合はない」
田島は独特の表情の読めない顔で、ふうんと鼻を鳴らした。いつもは分かりやすいくらいに喜怒哀楽をはっきり表現するのに、田島は時々こういう顔をする。それは、ひとつ上の階段に登っている人間の顔に阿部は思えた。