あのひと(前)
少しだけ、似ている、と思う。榛名も、こんな風に遠い顔をすることがあった。見るたびに、どこか落ち着かないざわざわとした感じを胸に起こさせるのに、なぜだか視線を逸らせない。だから、いつも見ていたのだ。
「榛名、つまんなくねーのかな」
田島はぽいと言葉を落とした。呟きにも近い声音だったのに、皆がその声に、ん、と反応を示した。
「俺はさ、強えー相手と当たるとスゲー燃える! 自分の力全部ぶつけて、どうやって勝ってやろーって、わくわくするじゃん」
「勝つの前提かよ」
苦笑いをまじえて花井がそう言うと、当ったり前じゃん! と田島が答える。
「負けよーと思って試合するやつなんかいないだろ?」
「うぐ……うん、まあ、そうだな」
そうなのだけれども、いつもいつも、勝ちをイメージして戦うのはなかなか難しいのでは、と花井は思う。勝ちたい、という気持ちはあっても、勝つ自分を思い描くのが困難な時もある。相手が強ければ強いほど、そうだ。
こういうとこが田島と自分の違いなんだよな、と落ち込みかける花井に、部員の幾人かは、俺は分かるぞ、と視線を投げかけていた。
「ともかく、せっかく強いチームと試合してんのに、球数投げたから降りるっての、俺だったらやだ!」
「でもそれはさ」
「うん、榛名さん、プロ目指してるんだろ? だからほら、怪我しないようにって」
「故障はしないように気をつけるよ。当たり前だろ? じゃなくって」
そこまで言ったところで、田島はもどかしい顔をした。気持ちがうまく言葉にできない、といった表情だ。
「自分で決めたんでも、投げたいのに我慢してるんだったら、そりゃつまんねーだろーなってこと!」
どうだとばかりに言い放った田島の言葉に、部員たちははっとした顔になった。阿部から聞いた「厳密な球数制限」の話が強烈だったため、榛名は投げるのがあまり好きではないような印象を持っていたが、そもそもプロを目指そうというほどの人間なのだ。投げることが好きではないなんてことは、ないだろうと気がつかされたからだ。
「わ、わかるっ」
三橋は急に大きな声を出した。
「俺、投げるの好きだっ! 肩、大事にしなくちゃって、だから、前みたいにいっぱい投げれないけど、ほんとは投げたいっ」
「だよなあっ!」
「うん、俺、投げられるなら、全部投げたい!」
三橋の言葉に、皆は、お前が投げるの好きなのは、よーく知ってるよ、と笑った。その中で阿部だけが硬い表情のままだった。
榛名が本当は投げたいのに、目標のために我慢しているのだ、なんてことは、阿部は考えたことがなかった。だってそうだ。榛名は、振り返りもしなかったじゃないか。あの試合でマウンドを降りる時に、ただ球数を指折り数えて、そのまま去っていったじゃないか。
「三橋と榛名じゃ全然違うだろ。面白いとか面白くねーとか、あいつには関係ねえよ」
気がつけば、阿部はそう口にしていた。
「プロになるまでの試合なんて、あいつにとっちゃ踏み台みたいなもんなんだから」
その場が急にしんとなるような、冷たい声音だった。阿部は、三橋がこちらを気遣わしげに見ているのに気がつく。三橋自身は、他人を嫌いになるようなことのないやつだから、こういう言葉を聞くのが嫌なのかもしれない、と阿部は思った。
「榛名がそう言ったのか?」
田島はさらりと聞いた。
「踏み台だって。そう言ったのか?」
「……目標はプロで野球やることだってのは、聞いた。そのために球数制限するんだってのも」
言いながら、阿部の脳裏に幼い自分の声がよみがえってくる。元希さん、とその男のことを呼んでいた。
元希さん、元希さんの目標はやっぱり甲子園ですか?
確か、そんな風なことを聞いたのだった。バッテリーを組むようになって半年以上経ち、ようやく阿部が榛名の球をこぼさず捕球できるようになった頃だった。榛名が阿部の力を認めてから、二人は少しずつ会話をするようになっていた。
榛名は着替えの途中で振り返り、はあ? と声を上げる。脱ぎかけのシャツを頭から引き抜いて、榛名は言った。
「なに、それ。お前の目標?」
「元希さんの、って言ってるじゃないですか。そりゃあ、俺も高校行ったら甲子園に出たいって思ってますけど」
「ふーん」
榛名はさして興味のなさそうな声を出した。
「ま、出るかもしんねえけど、そのために無理する気はねえな」
阿部は目を丸くした。出たい、ではなく、出る、とは大きなことを言う。
けれども、そんな傲慢にすら聞こえる言葉でも、榛名が言うと少しも不思議に聞こえない。阿部は榛名が高校野球でも活躍する姿を疑わなかった。
「じゃあ、元希さんの目標って、なんですか」
どきどきしながら阿部はそう尋ねた。榛名は、ロッカーから制服のシャツを引っ張り出して着込みながら、短く、プロ、とだけ答える。
「プロ」
阿部は馬鹿みたいに鸚鵡返しすることしかできなかった。榛名の答えが予想を超えていたからだ。そのくせ、そう言われてみれば、もうそれしか榛名の未来を描けないほどに、確かなものに思えた。
阿部の体は、興奮にふるえた。野球という夢そのものが、すぐそばにある。野球一筋で来た子どもが、その夢に惹き付けられ、酔っ払うのは、ごく自然なことだった。
愚かだったのは、その夢が榛名だけのものだということに、気がつかなかったことだ。どうして、バッテリーを組んでいたというだけで、同じチームだというだけで、榛名と同じ夢を見れるとまで思えたのだろう。
阿部は幼い日の自分を追いやって言った。
「自分で納得した場面じゃなきゃ、全力投球もしねえって、そう言ったんだよ。まだ球数制限続けてるってことは、高校野球は榛名の納得する場面じゃねえってことなんだろ」
ましてや、中学の試合の、それも負け試合などでは。榛名がその力をふるうわけがなかったのだ。
田島は、そうか、と頷いた。
「阿部はそれで、しんどかったんだな」
ひどく自然な口調で田島は言ったので、阿部はすぐに反論できなかった。なにを、と言いかけたところで、誰かが、あ、と声を上げた。
「中継、再開したぞ」
地べたに置かれた小さな携帯電話の画面に、夏の空が映し出される。眩しい青の下、三塁側のベンチから武蔵野第一高校の選手たちが、守備につくためグラウンドに飛び出していった。
マウンドに登るのは、榛名だ。スパイクで軽く足場を均すと砂埃が立ち、ロージンバッグの白い粉と混ざり合いながら揺らいで消えた。リードは1点で、この回を守りきれば勝利という、プレッシャーのかかる場面ではあったが、榛名の様子に乱れたところは見当たらず、ひどく悠然として見えた。その姿は、榛名が投げるのならば大丈夫だ、と野手に思わせる力があった。
途端に、むせ返るような思いが突き上げてきて、阿部は我知らずあえいだ。きっと、今武蔵野第一の選手たちが抱いているような信頼だとか、羨望だとか、安心だとか、そういった何もかもを、阿部も昔、この男に抱いていたのだ。榛名がエースであることを疑いもしなかった。どんな場面でだって、この人が本気で投げるのなら、誰だって敵いはしないのだと、そんな風に信じていた。
榛名が何球かの投球練習を終えて、審判が試合の再開をコールした時だった。