あのひと(前)
「はい、休憩終わりだよーっ!」
百枝の声が凛と響き渡り、それまでくつろいでいた部員たちは慌てた。彼らは試合の結果が気になるのか、後ろ髪を引かれる様子を一瞬見せたが、すぐに意識を切り替えてグラウンドへと駆け出していく。試合の様子を伝えていた携帯電話の画面は、プツリと電源が落とされてバッグの中へとしまわれた。
「じゃーな、阿部!」
「おー」
阿部は、日陰になっているベンチの軒下から、チームメイトたちが走って行ったグラウンドを見やった。砂が光を反射してまぶしい。フェンス際の木々は濃く緑を茂らせている。強い夏の中では、様々なものがくっきりと色を主張していた。
同じ空のはずだった。先ほどの画面の中の空と、今阿部が見ている空は同じもののはずだ。けれども、その空の下で、榛名はまだ戦っており、自分はここで、練習すら満足にもできない状態なのだと、改めて思わされた。
榛名は、まだ投げている。
机の上に、ばさばさと積み重ねられていくスコアブックを目にして、阿部は目を丸くした。
「ごめんねー、ざっと付けただけだから、整理もしてないし見づらいかも」
阿部はまだリハビリの途中でほかの部員と同じ練習メニューはこなせない。そのため、かかりつけの医者と監督と相談して作った別メニューをこなしているのだが、時々ぽっかりと時間が空いてしまうことがある。その空白を、阿部はデータ解析に費やすことにしていた。
今年の試合でスコアブックを付けているものがあったら見たい、と言ったのは阿部であるが、それでもここまでの量は予想していなかった。
「すげーな、篠岡」
すっかり感心した阿部がそう言うと、篠岡はからりと笑って手を振った。
「私はみんなよりもいつも早く帰らせてもらってるし、それに、好きでやってることだから」
一番上にあるものをパラパラとめくってみると、小ぶりな丸い字で、几帳面に書き込まれていた。注目の投手が投げる試合では、別にスコアカードを用意して配球まで記録しているものもある。
好きだから、というのは確かに大きな理由だろうが、それだけではここまで出来ないだろうとも阿部は思った。
「うん、でもスゲーよ」
阿部が真剣な顔でそう繰り返すので、篠岡は少し慌てたように言った。
「え、やだな。面と向かってそう言われると、照れちゃうね」
「なんで。エラソーにしていいんだぜ。夏大の試合もさ、篠岡がデータ揃えてくれてマジ助かった」
特に初戦の桐青戦では、集めたデータをもとにしっかりとした対策を練ったことが、勝利の大きな要因となった。
「これからも頼むな」
頼りにしてっから、と言って、阿部は何気なく篠岡に笑いかけた。
「……試合をするのは、みんなだから。私はみんながひとつでも多く勝てればうれしいんだよ」
篠岡はなぜだか困ったような顔で言った。阿部は、同年代の女の子の感情の機微というのものには、今ひとつ理解が及ばない。だから、今もなぜ篠岡がそんな顔をしているのか分からなかった。もし、聡い人間がこの場にいたならば、彼女はうれしいのを堪えているのだと気がついたかもしれない。
「それじゃ、私戻るね。阿部くん、またあとで」
ぱたぱたと忙しげに身を翻して扉へと向かう篠岡の背中に、サンキューな、と阿部は声をかける。篠岡は振り返って笑顔を見せてから、部屋を出て行った。
一人になった室内は、途端にしんとして感じられた。遠くの方から、かすかに金属バットの打球音が聞こえてくる。それを耳にすると、阿部は、なぜ自分はグラウンドではなく、こんなところにいるのだろうと考えずにはいられなかった。野球を遠い、と感じる日が来るなど、想像したこともなかったのに。
阿部はスコアブックを開いて眺めながら、昔はよく自分もこうして記録をつけていたな、と思い出した。高校生にになってからは、厳しい練習のためになかなかそんな時間は取れないが、中学生の頃は時間にも体力にも余裕があった。チームの公式記録とは別に、自分用のデータノートなんてものを作っていたくらいだ。
榛名の投球内容も、何度も記録した。ストライクゾーンを九つに区切った升目に、球種とコースを記していく。もっとも、投げる球の半分がどこへいくか分からないピッチャーの投げたコースを記して意味があるのか、という疑問は常にあったけれども。
ただ、阿部はその時間が好きだった。紙の上に結果を書き込むたびに、榛名が投げた球のひとつひとつを思い出す。真っ直ぐに向かってくる白い速度、ミット越しに受ける衝撃。腹の立つようなひどい暴投をしたかと思えば、これ以上はない、というような素晴らしい速球を投げる。榛名は決して、阿部の思い通りになるようなピッチャーではなかったけれども、そんな不満を軽々と飛び越えるほどの魅力が、榛名の投げる球にはあった。
榛名の投球数は試合によってそれぞれ違ったが、上限が80球を超えることがないことだけは一貫していた。81球目を投げることなく降板していく姿を、阿部は何度も見た。記録に起こしていると、マウンドを降りていく背中を思い出し、苦しいような、悔しいような、もどかしい気持ちでいっぱいになった。
そんな妄想は意味がない、と思いながらも、阿部は榛名の81球目をよく想像した。自分は、一体どんな球を要求するだろうか。試合の状況や、榛名の調子によっても違うだろう。スコアの片隅に、その想像の一球をひっそりと書き加えるのが阿部の癖になっていた。いつか榛名が投げるだろうその球を受けるのは自分であったらいいと思ったし、そうありたいと願った。
結局のところ、阿部が榛名と組んでいる間に、その81球目のサインを出すことはなかった。関東べスト8をかけて戦い、惨敗したあの試合以降は、それを追いかけることすら、阿部はやめてしまった。
篠岡が書き起こしたスコアブックには、様々な高校の、たくさんの選手たちの戦いの記録がしるされている。そのたくさんいる中で、こうまで榛名に拘るのは滑稽だと阿部は自分に思った。
―阿部君のライバルは、榛名さん?
三橋の言葉が耳に甦る。ライバルだというのなら、意識するのも不思議ではないのかもしれない。けれども、もう一度考えてみても、やはり榛名をライバルと思うには違和感があった。
そういうんじゃなくて、もっと、こう……。
そこまで考えて、阿部は自分の思考が気に食わない方向に走り始めているのに気がついて打ち消した。気持ちを切り替えて、データの整理と解析の作業に取り掛かろうとノートと筆記用具を取り出す。
もっと、ぐっと単純に言って、ただ榛名に心のどこかをごっそりと持って行かれただけなのだとは、思いたくなかった。
集中をしていると時間が経つのは早い。ノートの字がさすがに見えにくくなったな、と思ったところで、阿部はようやく日がかなり傾いていることに気がついた。
「やべ……」
そういえば、明日の朝食のメニューの打ち合わせが、まだだった。夜練の後でもいいのだが、そうすると一日体を動かしてくたくたになった三橋が、話の途中で舟をこぎ始めるだろうことは容易に予想がつく。
阿部は荷物をまとめて席を立つと、皆の元へ移動することにした。