あのひと(後)
先に進んでいた一行から、秋丸が駆け戻ってきた。榛名の顔と掴まれた阿部の腕を交互に見て、それから呆れたため息を漏らす。榛名はさすがに、多少ばつの悪そうな顔をした。
「えっと、タカヤ君?」
「あ、はい」
秋丸に呼ばれて阿部は顔を上げた。
「待ち合わせしてるって言ってたよね。それ、どこでなの?」
「ああ……、この先にあるファミレスを目印にしようって」
阿部がそこまで言ったところで、榛名はちょっとどうかと思うほどに、急にニカッと笑った。一体なんだと、阿部が目をむいていると、秋丸が横で吹き出した。
「なんだよ、笑うなよ」
「や、だって……、榛名、分かりやすすぎ」
「うるせー」
榛名と秋丸がお互いにこづき合っている。その様子を戸惑いながら見ている阿部に気が付いて、秋丸が言った。
「ごめんごめん。あのさ、俺らの打ち上げの場所も、そのファミレスなんだよね」
「え」
「だからさ、そこまでは一緒に行こうよ」
断る理由はない。ただ、あとほんの数分、榛名と歩くだけだ。けれども、正直なところ、久々に出会った榛名に振り回されて、すっかり気疲れしている。一刻も早く離れたいというのが、阿部のその時の本音だった。
榛名は、阿部の腕を引いた。
「来るだろ」
すぐにでも榛名から離れたいと思っているのは本当なのに、強気なくせにどこか請うような瞳にぶつかると、考える間もなく阿部は頷いていた。榛名は途端に上機嫌になって、阿部には少し大きいほどの歩幅で歩き始める。どうして、自分はいつもこんな風に、榛名のいいようにしてしまうのだろうと、阿部は不思議に思うのだった。
しばらくは、榛名と阿部と秋丸の三人で歩いていたが、途中で榛名が先輩に呼ばれて、前の集団に加わることになった。榛名は、離れる前に振り返って念を押すように、タカヤ、逃げんなよ、と言い置いて駆けていく。
「目的地が同じなのに逃げるもなにもねーだろ」
馬鹿じゃねーの、と思わず小声で呟くと、横にいた秋丸が笑い出した。
「榛名はほんと、タカヤ君に構いたくて仕方ないんだねえ」
「すっげー、迷惑です」
そう言いながら、阿部は前を歩く武蔵野第一のメンバーたちの輪に加わった榛名を見た。先ほど話をした、宮下や加具山、大河らの先輩たちに、なにやらからかわれている様子だ。けれども、雰囲気は和やかで、榛名が彼らとうまくやっているのだろうことが阿部にも分かった。
「仲いいんすね」
「あ? うーん、そうだねえ。仲良くなったよね。榛名は特に、先輩たちからは可愛がられてるしね」
「そうなんすか」
シニアの頃は、どうだっただろう。あんな風に、榛名は笑っていただろうか。思い出そうとしたが、阿部の記憶にすぐに浮かびあがってくるのは、入団したばかりの冷たくて狂暴な表情や、言い争っている最中の苛立った表情ばかりだった。
「いやあ、でも感動だなあ、なんか」
「は?」
「俺さ、ずっとタカヤ君に会いたかったんだよ」
秋丸はしみじみと言った。阿部は驚いて、目を少し見開いたまま、俺にですか、と尋ねる。
「中学の頃の榛名がさ、しょっちゅう君の名前出してたんだよ。昨日はタカヤがどうしたこうした、って」
「ああ、どうせ生意気だとかなんとか言ってたんでしょう」
阿部がそう言うと、秋丸は笑った。
「ま、そうだけどね。でも、そこが気に入ってたみたいだよ?」
「俺には、怒鳴ってばかりでしたけど」
「榛名は、あれで照れ屋だからなー。妙なとこで純情だし」
「はあ……」
相づちを打ちながら、一体何の話をしているのだろうと阿部は思った。
「榛名がずっと球数制限してたのは知ってるよね」
秋丸は表情を改めて言った。
「……はい」
「いつも、俺がイニングの頭にそれまでの球数伝えることにしてたんだ。けど、この間の試合で、榛名が、言わなくていい、って言ってさ」
阿部は秋丸の顔を見れなくて、うつむいた。けれども、声の調子だけでも、十分すぎるほどに感情は伝わってきた。
「そっか、もう数えなくていいんだー、って思ったら、俺、うれしくて」
分かります、という言葉が、すんでのところで出そうなのを阿部は押し止めた。秋丸のその喜びは、数年前に阿部が欲しかったものだ。けれども、今となっては、阿部が手に入れるべくもないものだった。
「中学で怪我して、色々あった頃の榛名はさ、野球辞めるとまで言ってたんだよ。知ってた?」
秋丸の言葉に、阿部はびっくりして思わず顔を上げた。それから、ゆっくりと首を振る。
「それは……、馬鹿ですね」
榛名自身が、自分から野球を手放すなど、馬鹿としか言いようがない。それは、榛名を知っている人間なら、誰だって思うだろう。けれども、逆に考えれば、そんな馬鹿なことを考えてしまうほどに、榛名は追い詰められていたのかもしれない、と阿部は思った。
「うん、だからさ、俺らはみんなで説得して、シニアに行けって言ったんだ。そこで野球続けろよって」
秋丸は過去を思い出す目で言った。
「俺が榛名と知り会ったのは中学入ってからだけど、すっごいピッチャーがいるんだなあってびっくりしたよ。それから、すっごく楽しそうに投げるなあって。野球が好きなんだなあって思った。この間の試合で、80球超えても投げてるとこ見てたらさ、なんかその最初に会った頃の榛名思い出したよ」
この人が知っているのは、榛名なのだな、と阿部は思った。シニアにいた頃がおかしくて、今の姿が、本来の榛名なのだと秋丸は言っている。
「タカヤ君のおかげだね」
予想外の言葉に、阿部はまたたいた。
「シニアに行って、野球を続けようと思えたから、今また榛名は笑って野球できてるんだと思う」
だから、俺は君に会いたかったんだよ、と秋丸は言った。喜ぶべき言葉なのかもしれなかった。けれども、阿部は首を振った。
「違いますよ」
前の方で、わっと笑い声が上がった。その中心にいるのは、榛名だ。あれが本当の榛名だというのなら、阿部の知らない男だった。
「いつだって、投げるのは榛名なんです」
それを決めるのは、榛名自身なんです。阿部は静かにそう続けた。阿部の存在が榛名に影響を与えたなどとは、到底思えなかった。
秋丸はしばらく黙っていたが、やがて口を開くと、そっと言った。
「それでも、俺はあの時君がいてくれたことに、ありがとうって思うよ」
阿部は、この人は榛名が好きなのだな、と思った。榛名の野球が好きでたまらないのだろうと、そう思った。
ファミリーレストランの前まで来ると、見慣れた車体が目に入った。運転席側のドアのすぐ横に立って、携帯電話を片手にした後ろ姿が見えた、と思った次の瞬間には、阿部のズボンのポケットの中が震え始めた。手を突っ込んで、携帯電話を取り出しながら、阿部は、お母さん、と呼ぶ。
「あ、タカ。遅いじゃないの。お母さん心配しちゃったわよ」
阿部の母は息子の姿を見とがめると、そう言った。
「あー、ごめん。ちょっと、知り合いに会って」
阿部の言葉を聞いて、母は息子のそばにいる背の高い男に視線を転じた。
「え、やだ。元希くん?」
「ちわス」
「うそー! やっだー、すっごく大きくなったのねえ!」