あのひと(後)
母は久しぶりに見る、息子の中学時代のチームメイトの姿にすっかり興奮してしまったようだった。高い声を上げてはしゃいでいる。
話し始めた阿部たちの横を、武蔵野高校の部員たちが通りすぎていった。店に入る前に、宮下だけは振り返って、またね、とでも言うように手を振る。阿部は小さく頷いてそれに応えた。
榛名は人好きのする笑顔を見せて、阿部の母の話に相づちを打っている。元々、女受けも年上受けもいい男なのだった。
「タカ、昔は元希さん、元希さん、ってそればっかりだったのに、近頃すっかり話に出さなくなったと思ってたけど、なあんだ。今でも仲良しだったのねえ」
母は微妙なことを言った。これ以上余計なことを言われてはたまらないとばかりに、阿部は会話に割って入る。
「お母さん、榛名さんは部活の用事があるから」
「あら、そうなの。ごめんね、引き止めちゃって」
またいつでも遊びに来てよね、などと言いながら、母は先に車に乗り込んだ。それを見届けた阿部は、促すように榛名の体を押す。
「ほら、榛名さんも。いい加減先輩待たせちゃまずいでしょ」
「……おう。つーかさ、それ、なに?」
「は?」
「榛名サン、っての。何か、気持ち悪イんだけど」
榛名は言葉の通りに居心地悪げに体をもぞつかせた。阿部は低く言った。
「榛名さんは……、榛名さんでしょ」
昔の通りに呼びたくはなかった。なにより、今ここにいる男は、阿部の知っていた「元希さん」ではない、という思いがそうさせた。
「タカヤはなに拗ねてんだよ」
榛名が見当違いの事を言うので、阿部は思わず苦笑いを浮かべた。
「早く行ってください。あんたは、エースなんだから。エースってのは、チームの鑑であるべきでしょう」
だから、そういう人間が団体行動乱しちゃ駄目ですよ、と阿部はたしなめた。そういう所で間違う榛名ではない。阿部の言う事がもっともだと思ったのだろう。榛名は、どこか名残惜しげな様子だったが、踵を返して店の入り口へ向かって歩きはじめた。
阿部は後部座席の方へ回りこんで、ドアに手をかける。その時、榛名が阿部を呼んだ。タカヤ、という呼ぶ声は、昔と変わらないままだ。
「携帯、変わってないよな!」
店の前と、駐車場との距離を容易に飛び越えて、榛名の声は届いた。阿部が頷くと、榛名は満足したように、今度こそ店内へと消えて行った。今更、阿部の携帯電話の番号が変わっていないことを確認して、一体どうしようというのだろう。阿部は、あまり考えたくなかった。ただ、握ったままの携帯電話を持つ手が、少しだけ震えた。
ドアを開けると、待ちくたびれた様子で後部座席に寝転がっていた弟のシュンが身を起こした。
「にーちゃん、遅い」
「わりーわりー」
おざなりに阿部が謝ったところで、車が動き始める。
「さっきのって、元希さん?」
シュンがそう尋ねると、阿部が口を開く前に母が声を上げた。
「そうなのよー! 元希くん、すっかりかっこよくなっちゃって、お母さんどきどきしちゃった」
まるでアイドルに熱を上げる若い娘のようなことを言った。母は、ミーハーなのだ。シュンは、ふーんと頷いてから、両脚をばたばたと動かした。
「でもさ、すごいよね、元希さん。武蔵野第一なんて、ずっと野球じゃ無名だったのにさー。夏大であそこまで勝ち上がるとは思わなかったよ」
「そうねえ。野球よりサッカーで有名だものね。元希くん、野球上手だったから、てっきり名門校に行くと思ってたんだけど」
推薦とかスカウトの話も結構あったんじゃない、と母は阿部に話を振った。
「知らねえよ。そういう話、あの人としなかったし」
「タカって肝心なところが抜けてるのよね。ちゃんと聞かなくっちゃ、駄目じゃない」
「別に、関係ねーし」
「あれ。元希くんと甲子園行きたかったんじゃなかったの」
「言ってネエよ!」
阿部は語気を荒げてそう言ったが、母は、なに意地張ってるのかしらね、と取り合わなかった。
「まーまー、元希さんとこもすごいけどさ、にーちゃんとこもすごいじゃん!」
シュンは、阿部が怒り始める前の絶妙のタイミングでそう言った。弟は昔から、こういう時の空気の読み方がうまいのだ。
「創部一年目でベスト16だよ! かっこいいよ」
掛け値なしの純粋な尊敬を向けられれば、悪い気持ちはしなかった。けれども、胸の内で、もっと上にもいけたはずだ、とも思う。阿部は、無意識のうちに怪我をした膝をそっと撫でていた。
「田島さんもいるしさ、来年はもっといいとこ行くんじゃない?」
「おー、俺らの目標は、全国制覇だぜ」
阿部がそう言うと、シュンは、でっけー、と言って笑い出した。
「いいなあ、楽しそう」
「おう、楽しいぞ」
混じりけなしの笑顔で阿部は言った。家族であっても、阿部のこういう顔を見るのは珍しい。シュンは、にいちゃんは本当に西浦が好きなんだなあ、とどこか微笑ましいような気持ちになった。
「そういえば、田島さんこそ、いっぱいスカウトあったはずなんだよね。先輩たちも田島さんは引く手あまただったーって言ってたし。なんで西浦にしたんだろう?」
心底不思議そうな顔で言うシュンに、阿部は自身も最近知ったばかりの事実を教えてやった。
「ああ、それ、家が近いから」
「え?」
「もうけーって感じだよな。田島の家が西浦の近くでラッキーだったよ」
シュンはしばらくは信じられない様子だったが、兄がどうやら本当のことを言っているらしいと分かると、目をキラキラさせて、すっげえ、と叫んだ。
「田島さん、かっこいー!」
「かっこいいかあ?」
「かっこいいよ! 色んな名門校からのスカウト蹴って、我が道を行くって感じが、スゲーかっこいい!」
すっかり感動しきった様子でシュンはそう言った。
「お前は、もう田島ならなんでもかっこいいんだろ」
そう言って笑いながら、阿部はふといつかの記憶が甦ってくるように感じた。昔、自分もこんな風に、誰かに憧れていなかったか。その人がすることは、なんでも強烈に阿部に影響を与えて、まるで自分の全てがその人で染められるような感覚を味わってはいなかったか。
無邪気に田島を慕う弟をうらやましく思った。阿部のその人は、もういない人だったから。
その提案を聞いたのは、合宿明けから数えて何日目かの練習の時だった。
「全力投球の練習を増やす?」
阿部がそう言うと、田島と三橋が同時に頷いた。阿部の回復が間に合わないので、新人戦ではこの二人がバッテリーを組むことがほぼ決まっている。彼らは相談した上で、次からの試合を勝ち抜くために、今までよりも全力投球の練習に比重を置こうと決めたらしかった。
「モモカンには、もう相談してオッケーもらった。阿部にも一応言っておこうと思ってさ」
田島の言葉に、阿部の胸の内はひそかに波打った。阿部も勿論アドバイスはするが、配球については基本的にはバッテリーの二人に任せることにしている。これは田島からの要望でもあった。