あのひと(後)
捕手一筋できた阿部と違って、つい最近マスクをかぶるようになったばかりの田島には、他人の考えた配球を覚えるのは難しい。ベンチから一球ずつ阿部が指示をすることもできるが、前回のようにサインを盗まれる危険性もあるし、投手の調子や打者の空気を実際に肌で感じている者が配球を組み立てた方が結果的にはいいだろう、という結論になったのだ。阿部もその事には納得している。少なくとも、納得している、つもりだ。
「あのさ、前の試合見てても思ったんだけど、田島は三橋の全力まっすぐを決め球に使ってんだな」
阿部はゆっくり口を開いた。
「だって一番速いじゃん。三橋の球ん中じゃ、一番力あるし」
「そりゃあそうだけど……、あくまで、三橋の球の中で、他と比べりゃ速いって、だけだからな」
三橋の肩がぴくりと揺れた。
「もっと速い球を勝負球に持ってる投手はいくらでもいるんだぜ。他の高校の連中はそいつらに合わせて練習してんだ。分かってても打てねーくらい速いんなら別だけど、三橋の全力まっすぐじゃ力押しは無理だよ」
「んじゃあ、配球についてはまたよっく相談しようぜ! でも、全力投球の練習増やすのはそれと別で、やってていいだろ」
な、と田島は笑って言った。
「三橋は他の球は安定してんだし、あとは全力でももっとコース狙えるようになったら、すげえじゃん。そんで、球速もアップしたら、もっとすげえ!」
田島の言葉に、三橋は浮かれたような笑みを見せた。阿部は、なぜだか苛立ちはじめる気持ちを抑えることができなかった。
「んな簡単に行くかよ……」
「簡単にはいかねーかもだけど、やってみる価値はあるだろ」
そうは言っても、全力投球の練習は負担も大きいし、よくよく気をつけて行わなければならないものだ。もしも、フォームを崩して、今の精密なコントロールや他の変化球にまで影響が出てしまっては、元も子もない。だからこそ、阿部もこれまで慎重に慎重をかさねて三橋と練習をしてきたのだ。
その時、それまで田島がしゃべるのに任せていただけだった三橋が、初めて口を開いた。
「オレ、速い球、投げたいっ!」
まただ、と阿部は思った。三橋が速い球を投げたいのは知っている。阿部だって、三橋の希望が叶えばいいな、と思うから、今の良さを残したまま、球速が上げられるようにと、あれこれ考えてメニューを組んでいるのだ。けれども、捕手のどんな思惑も、投手の意志の前には無意味のように感じられた。
「投げたいんだ、阿部くん」
三橋は重ねて言った。阿部は、気がついたら叫んでいた。
「お前は、榛名みたいにはなれねーよ! なんでそこまで張り合うんだ」
言ったあとに阿部ははっとなったが、一度口に出した言葉はもう引っ込められない。三橋がびっくりしたように大きく目を見開いているのを見て、どっと後悔が押し寄せてくる。
言いたかったのは、そうじゃない、と阿部は思った。違う、今のは、ただ、三橋との練習に自分が関われないのが嫌だっただけなのだ。まるで、のけものにされたようで、子どものようにだだをこねただけなのだ。それから、また置いていかれたように感じたからだ。
投手と意見がぶつかった時、結局は敵わない、と阿部は思う。投げるのは彼らだからだ。そうして、その彼らに心底惚れてしまっている自分がいるからだ。
阿部の脳裏に背中がよぎった。80球でマウンドを降りて行く姿。いなくなった、あのひと。その背中は、うまくいかなかった自分たちバッテリーをそのまま象徴していた。
「榛名に拘ってるのは、阿部だろ」
田島は静かに言った。その声に、少しでも責めるような響きがあればいっそ楽なのだが、田島の声音は、ただ淡々と事実を述べているだけのものだった。
「ちがう……」
阿部は言ったが、言葉に力はこもらなかった。
「なんで? いいじゃん、拘ってたって。昔のチームメイトで、バッテリー組んでた相手なんだから、気にしたって不思議じゃねーよ」
阿部は拘りたくなかった。榛名のことは、ただの最低の投手として忘れたかった。彼が、阿部にとって世界のすべてそのものだった時があるのだと、思いたくはなかった。阿部を置いていった相手にそれほどまでに思いをかけているなんて、つらすぎるからだ。
「阿部は榛名が嫌いで、好きなんだろ」
田島は簡潔に言った。複雑だと思っていた感情は、そんなにも簡単な言葉で表されてしまうのか、と阿部は驚き、それからやはり認めたくなかった。
「阿部くん」
呼ばれて視線をやると、三橋が強い目をして阿部を見つめていた。まるでマウンドにいる時のような凛とした顔つきだった。阿部の好きな顔だ。
「俺、張り合うよ。榛名さん、すごい投手、だから。俺は、同じピッチャーとして、榛名さんと張り合う」
いつものような弱々しい響きはまるでなく、三橋ははっきりと自分の意志を主張した。やはり駄目なのだ、と阿部は思った。結局、投手とわかりあうなんて無理なのだ。そう思ったら、阿部に出来るのは、勝手にしろ、と言い捨ててその場をあとにすることだけだった。
練習はいつもと変わらず、滞りなく進んだ。様子が違うのは、三橋と阿部にどこかぎこちない空気が漂っているところだが、二人の間が緊張しているのは特に珍しいことでもないので、部員たちはそれほど気にかけはしなかった。
練習の後、部室で着替えながら、阿部は三橋の視線を感じていた。相手が今日のいさかいについて、もう少し話したがっているのは分かっていたが、今は聞く気になれなかった。
制服に着替え終わり、脱いだ練習着をバッグに詰め込んでいる時だった。マナーモードにしたままだった携帯が震えて、着信を告げる。
阿部は手を休めて何気なく携帯を開き、ディスプレイに表示された名前を見て固まった。いったい、間がいいのか、悪いのか、と阿部は考えて、そもそもこの相手にそんなことを考えるのが無駄だと思い直した。
いっそ無視をしてやろうかとも思ったが、まるで阿部が出るまでは決してやめない、とでも言うように、携帯電話はしつこく震え続けている。阿部は観念したように息を吐き、荷物をまとめて立ち上がった。
「ワリ、俺、先帰るわ」
そう告げると、部室の方々から、お疲れ、という声が飛んだ。その中で、三橋だけは声を出しそびれているようだったが、阿部はもう気にする余裕もなく、扉を開けて外に出ていた。
「もしもし」
「タッカヤ、お前、おっせーよ!」
通話ボタンを押した途端飛び込んできたのがその怒声だった。阿部はそのまま、電源ボタンを押して通話を切りたい衝動に駆られる。
「着替えてたんだから、しょうがないでしょ。何か用ですか」
「おー、今部活終わったとこ? じゃあ、まだ学校にいんだ」
「今から帰るところですけど……」
言いながら、阿部は嫌な予感がする、と思った。
「なら、合流しようぜ! シニアん時よく寄ってたコンビニ、覚えてるだろ? あそこに来いよ」
榛名はうきうきとした口調で言った。
「無理ですよ。そんな遠いとこ……」
「遠くねーよ。チャリならすぐだろ」
「今、俺自転車で来てないんで」
「なんで。パクられたん? お前どんくせーなあ。ちゃんと鍵は二個つけとかなきゃ駄目だぞ」