あのひと(後)
からかうように言う榛名がわずらわしくて、阿部はさっさと会話を切り上げようと、行けない理由を言った。
「違いますよ。ちょっと、膝、怪我してるんで。チャリは下りはともかく、上り坂がキツいんです」
榛名は急に黙り込んだ。それから、たっぷり何呼吸か分の間を置いて、ゆっくりと尋ねる。
「……ヒデエの?」
その声が、予想よりもずっと真剣で、心配のようなものが含まれていたので、阿部の口調も自然と改まった。
「いや、もう固定も外して、今はリハビリの途中です。こないだだって、普通に一緒に歩いたでしょ。元々ただの捻挫なんです」
「捻挫つっても、甘くは見れねーだろ。ちゃんと治ってんの」
「経過はいいですよ。今は、無理のない範囲で少しずつ体動かしてってるところです。だから、歩くのは構わないですけど、いくらなんでもあのコンビニまでは行けません」
阿部がそう言うと、榛名はそうか、と答えた。これで話は終わったと思った阿部だったが、榛名は続けて言った。
「じゃあさ、俺がそっちに行ってやるよ」
西浦高校の最寄の駅名を挙げて、そこで待っていろと榛名は告げる。そうして、阿部の返事を聞きもしないうちに、通話を打ち切った。
阿部の耳を、通話が途切れたあとの無機質な電子音が叩く。榛名は相も変わらず、まるきり榛名のままなのだった。
改札が見えるベンチに腰かけて、阿部は律儀に待っていた。そうしながら、なぜ自分はここにいるのかと苛立たずにはいられなかった。考えてみれば、榛名は今日三橋と言い争うことになった原因のひとつである。やつあたりめいた感情だとは自覚しているが、榛名に振り回されている自分が嫌だと思った。
そもそも、榛名はなぜ今になって、阿部にこうも構おうとするのだろう。榛名が戸田北シニアのチームを卒団して以降は、まったく関わりがなく過ごして来た。春に武蔵野第一の試合を観戦しに行って、榛名が阿部を呼びつけるまで、言葉ひとつ交わしはしなかったというのに、この間などは、随分しつこく阿部を引き止めてきたのが不思議だった。今日だって、行けない理由を阿部が告げると、榛名の方から来ると言う。そこまでして会って、どうしようと言うのだろう。
阿部はしばらく思考を巡らせていたが、結局のところ、投手の考えることなど分かりはしない、と考えるのを放棄した。人間を難しく考えるのは、阿部は苦手なのだ。
列車がホームに到着した時のメロディが聞こえて、しばらくすると電車から降りたばかりの人々がわっと改札を通り始めた。いつだって、一際目立つ男なので、榛名がいるのはすぐ分かる。阿部は立ち上がって、榛名がこちらへ向かってくるのを待った。
改札を抜けた榛名は、阿部の姿を目に留めると、めいっぱい大きく口を開いた。
「タカヤ!」
周りにいた人々が、思わずぎょっとなるほどの大声だった。呼ばれた阿部以外の人間まで、何事かと振り返っている。阿部は視線を浴びていたたまれない気持ちになったが、榛名は周囲のそんな様子はまるで目に入らないようだった。まっすぐ阿部の元へと駆けてくる。
「なー、今日俺、カード忘れたから切符買ったんだけど、久しぶりだからなんかドキドキした!」
子どものようなことを言って榛名は笑った。のん気な様子に、阿部は苛々がつのる。榛名と居たくない。早く帰りたかった。
「用はなんです」
「あ?」
「わざわざ来るぐらいだから、何かあるんでしょ」
阿部は愛想もなく言ったが、榛名はとくに堪えた様子はなかった。
「まー、ともかく、座ろうぜ」
そう言って、榛名は少し強引に阿部を引っ張ってベンチに座らせた。榛名自身も、その場にエナメルバッグを下ろしてから、阿部の隣にどかりと腰かける。長い足を前に思い切り伸ばすので、座っていてさえ、榛名は大きかった。
それからしばらく、二人は並んで駅を行きかう人たちを眺めていた。榛名が口を開かないので、阿部は居心地悪く体をもぞつかせる。時折盗み見た榛名の顔は、何を考えているのか分からない、独特のしんとした表情を浮かべていた。
特別仲がいい訳でもない、昔のようにチームの先輩と後輩という立場があるわけでもない、あいまいな関係の相手と、何も話さずにじっとしている時間は、ひどく気詰まりだった。
「帰っていいですか」
阿部はようやくそう言った。榛名がゆっくりと首を巡らせて、阿部を見る。
「榛名さん、別に用ないみたいだし。俺、帰りたいんです」
阿部が言い募っても、榛名は黙ったままだった。
「あと、今日みたいに急に電話してきて会おうだとか、こないだみたいなのも、やめて欲しいんです」
いつもであれば、なんでだよ、とか、生意気言うな、だとか噛み付いてくるだろう榛名が静かなので、阿部は落ち着かない気持ちになる。
「迷惑なんです」
ここまで言えば、さすがに何か反応を示すだろうと考えて阿部は言った。榛名の体がゆっくりと揺れて、その口が開くのを見て、どんな怒鳴り声が飛び出すのかと身構えたが、聞こえてきたのは予想外に穏やかな声だった。
「タカヤはイラついてんだな」
それから、阿部の頭に何かが触れる感触がした。大きくて暖かなそれは、榛名の手のひらだ。一瞬のうちに、鮮やかに甦ってくるものがあった。その手が昔、今と同じように阿部の頭を撫でたこと、うれしかったこと、誇らしかったこと、そんな感覚が一時に襲いかかり、阿部はめまいがしそうな思いだった。
「やめろよ!」
阿部は榛名の手を振り払った。そのまま暖かさを感じていれば、どうにかなってしまいそうだったからだ。けれども、阿部はすぐにそんな自分の行為に後悔することとなった。強く振り払った榛名の手が、利き腕の左手であることに気がついたからだ。
どんな時だって、大事にしなければならないものだ。大事に出来る自分でありたいと思ってきた。
もう、めちゃくちゃだろ。
阿部の心の中は、始末が付かないほどに、荒れ狂っていた。自分でもどうしたらおさまりが付くのか分からない。
「隆也」
感情の轟音の中で、その声はまっすぐに届いた。阿部が顔をあげると、榛名がこちらを見ていた。
「いいぜ、八つ当たりして」
榛名は、どんと来い、とばかりに胸を叩いた。阿部は、は、と息を漏らして目の前の男を見つめ返す。何を言っているのか、理解が追いつかなかったからだ。
「ほら、タカヤ。遠慮はいらねーぞ」
そう言うと榛名は阿部の手をとって、榛名の胸板を軽く殴らせた。鍛えられた筋肉の硬さに、阿部の手が跳ね返る。阿部はまじまじと榛名を見つめた。
「こないださ、あのあと、タカヤの話になって」
榛名は急に話しはじめた。
「タカヤは俺にびびんねえから、すごいとかみんな言い始めて、そしたら秋丸が、中学ん時の俺はもっとやばかった、怖かった、とか言い出してさ。俺、あんま覚えてねえんだけど、そうだったんかな?」
どこか幼げな口調になって榛名は言った。阿部が答えないのを肯定と受け取ったらしい。榛名は、そっかー、と一人で納得したように頷いて続けた。
「あの頃クサってたなー、てのは、なんか分かるから、そうかもしんねーって俺が言ったら、秋丸が、榛名は良かったよね、って言うんだよ」