あのひと(後)
しゃべりながら、阿部の手を握った榛名の指先が動いていた。無意識なのか、まるでボールをこするような仕草で、阿部の肌を撫でている。
「タカヤがずっと付き合って、受け止めてくれてたから、だから良かったね、ってさ。それ聞いて、俺、あー、って思って」
そこまで言うと、榛名は言葉を探すように思案顔になり、ううんと唸った、しばらくそうして考えていたが、途中で諦めたらしい。ともかく、と前置いて榛名は言った。
「だから、今度は、お返し。お前がクサって、イラついてんなら、付き合うぜ」
それに、俺のが、先輩だし、年上だし、おにーさんだし、と言って、榛名は笑った。その顔を見たら、阿部はもう駄目だった。くそ、と自分に毒づいてみても、ぐずぐずと崩れた心の中の壁は、もうとうに榛名の侵入を許しているのだ。
「むかつく……」
阿部は、ぎゅっとこぶしを作って振り上げる。
「あんたの球が馬鹿みたいに速いから、三橋が憧れちまって、困んだよ!」
どん、とひとつ榛名を叩いてそう言った。
「ミハシ?」
「うちの投手!」
「あー、あの……なんかひょろひょろした」
ぼんやりとした記憶を呼び起こしながらそう言う榛名の言葉に、阿部はギッと視線を強くして睨みあげた。
「あんた、三橋を馬鹿にしてんだろ」
「は?」
「お互いがんばろーな、とか、ふざけんじゃねーよ! あんたに言われなくても三橋はスッゲー頑張ってるっての!」
阿部の目にじわりと涙がこみ上げてくる。三橋の努力を思うと、なんだかすぐに泣けてしまうのだった。
「すっげー頑張ってるし、すげえいい投手なんだ。あいつの投げる球は全部捕りたいって思ってたし、約束したのに、怪我して、途中退場とか、なさけねえ……」
「怪我は、しょーがねーだろ。無理してそのまま出て、ずっと野球できなくなったら、その方が駄目じゃん」
榛名の言い分が正しいのは分かっているが、気持ちが追いつかなかった。
「けど、そのあと、三橋、四球出して……! 俺がずっと受けてたら、そんなことさせなかったのに」
「投手の成績は投手のもんだろー。なんでお前がそこまでセキニン感じるんだよ」
「俺と三橋はそうだったんだよ! 俺が全部やるって言ったんだ。俺は、あいつをほんとのエースにしてやるって、あいつも、俺が受けたらいい投手になるって言って……」
阿部は鼻をすすりあげた。その拍子に、涙がぼろりとこぼれ落ちそうになり、慌てて手の甲で乱暴にぬぐう。
「なんか、ややこしーことになってんだな」
「だって、三橋、変なやつだし……」
阿部がそう言うと、榛名は笑い声を上げた。
「お前も、相当変だよ! 体中アザだらけになっても俺ん球に食らいついてきてたもんな」
変と言われた阿部は口を曲げた。拗ねたようなその顔に、榛名はまた笑う。
「でも、タカヤが変なキャッチでよかったって思うぜ」
榛名は、泣くな、とでも言うように、親指の腹で阿部の目元をこすった。
「……あんたと組んでた時、ケンカばっかりだった」
「そうだっけ?」
「そうだよ! だから、三橋とはうまくやりてえって思うのに、うまくいかねーし。……今日も、怒鳴っちまうし」
思い出して落ち込む阿部に、榛名はあっさりと言った。
「タカヤは短気だからなー」
「あんたに言われたくねえよ!」
「だからさ、お互いさまだろ」
榛名はくしゃりと阿部の頭をかき回した。今度は阿部も振り払わなかった。
「バッテリーなんだから、どっちかが多いとか少ないとかじゃないだろ」
阿部は、この間の試合のあとに、三橋と話した時のことを思い出していた。お互いのこれまでを謝って、それから、これからの話をしたのだった。
そうだ。一緒にがんばろうって、言ったんだ。だったら、俺はちゃんと三橋と話をしなきゃだ。
阿部は制服のシャツの袖口で顔をぬぐい、今度こそ完全に涙のあとを消して顔を上げた。榛名の顔を見つめる。昔から知っている顔だ。けれども、昔とは違う風に見える顔だった。
「あんたとのバッテリーじゃ、俺が我慢するのが多かったと思いますけど」
阿部がそう言うと、榛名は呆れたような息を吐いた。
「タカヤはお子様だな!」
「はああ?」
「エラソーにしてても、やっぱ年下なんだなーって、今、すっげー思ったぜ」
「どこがだよ」
「だから、そういうとこ!」
しばらくぎゃあぎゃあと言い合いを続けていたが、さすがに言葉も尽きて、短い沈黙が落ちた。遠慮なく言葉をぶつけているうちに、心もほぐれたのだろうか。阿部は、ふいに聞いてみる気になって、榛名に尋ねた。
「あんたも、他の投手に憧れたりとか、うらやましかったりとか、するんですか?」
シニアの頃にも、そういえばそんな話はしたことがないように思う。野球少年が寄り集まれば、好きなプロ野球選手は、なんて話なるのは珍しくはない。けれども、榛名相手にそういった話を持ちかける仲間はいなかった。
「あ? あー……、別に、特定の選手に憧れたりとかは、ねーけど」
榛名はなぜだかぼそぼそと言った。
「コントロール……、がもうちっと良くなりてえなあ、とは、思う」
阿部はきょとん、と目を丸くした。榛名の顔が、気まずさからゆっくりと赤く染まるまでの間、たっぷり言葉を失って見つめていた。
「気にして……たんすか」
ノーコンなの、と阿部が言うと、榛名は怒鳴った。
「うるせえよ! そりゃ、別にコントロールで勝負しようとは思ってねーし、そういうタイプじゃねえのは分かってんだよ! けど、俺の球の速さ生かすこと考えたら、制球力はあるにこしたことねーだろ!」
「そうっすね……。速いだけじゃ意味ないですしね」
「てめ……!」
榛名は手を伸ばして阿部の頬をつまんだ。
「生意気なんだよ!」
「いてえって! 離せ、馬鹿力!」
そう言いながら、阿部は急に笑い出した。理由は分からない。けれども、遠いと思っていた榛名が、思っていたほどは離れておらず、阿部と同じ場所に立っているように感じられたのが、うれしかったのかもしれなかった。
榛名は、笑い始めた阿部にびっくりした顔で手を引っ込めて、それから、阿部の笑顔を写し取ったかのように笑って言った。
「なんか、シニアん時みたいだな!」
え、と阿部は思って榛名の顔を見た。
「お前、そうしてろよ。生意気でいいからさ、笑ってろって」
榛名の言葉に戸惑っていると、低く唸るような振動音がどこからか聞こえた。携帯電話のバイブレーションの音のようだ。榛名はばたばたと自分の体を叩いて、制服には携帯電話を入れていないことを確認すると、屈みこんで足元のバッグを開いた。
「もしもし。……あ? うん、あー、もう帰るって。うん、うん、分かったよ」
榛名は短く通話を終わらせた。
「わりー、親がさっさと帰って来いってうるせーから」
「ああ、じゃあ、帰りましょう」
二人は立ち上がって、ホームへ向かって歩いた。そこから、別れる瞬間まで、馬鹿みたいなくだらない話をして帰った。先に降りる榛名が、閉じていくドアの向こうで、じゃあなと手を振るのを目にしながら、そういえば、結局榛名は何をしに来たんだと阿部は遅れて首をかしげた。