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遠つ夜(とおつよる)

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 黒を基調とした上衣で身を隠すようにしながら、マイグリンは裳裾と髪をたなびかせて無人の街を駆けていく。帯革に吊したアングレイルが締め金に当たってかちんかちんと冷たく響いたが、それを除けば彼の足音ごく密やかなものだった。闇を見とおす目を持つ彼に灯明は不要であり、まるで影が街路を渡っていくかのような姿である。しかしノルドールの血を濃く受けた彼の肌は、星明かりを浴びてぞっとするような白さで輝いていた。唯一黒に覆われることのなかったむき出しの顔は、影の中を揺らめき進む仄青い燐火のようで、その不吉とも言える光をある一対の目が捉えたのはごく自然なことと言えた。目の主とは賢者トゥアゴンである。水の音なう岩山に坐すノルドの王は、今宵は珍しくローリエンより使わされる夢の小道を探しあぐね、その褥(しとね)から出で来たのだった。

「マイグリン」
 トゥアゴンが塔の上より発した声は、寝静まった王城によく響いた。それまで駆歩させていた馬を御すかのように、なかばのめりながら立ち止まると、マイグリンは刮目して露台を仰ぎ見、白眼の中心に黒々と宿る瞳でトゥアゴンを射貫く。とっさの驚きが去ったあとの彼の目に、わずかな怯えの色が残されたのが見て取れた。トゥアゴンはふたたび甥の名を呼ぶ。

 招きに応じて塔の上まで昇ってきたマイグリンへ向かって、トゥアゴンは迎えの手を差し伸べた。主君の前にぬかずく甥に対し、招くようにてのひらを動かして起立を促すと、今は王とその臣ではなく、ただの伯父と甥であろうぞ、と微笑とともにささやいた。マイグリンも一瞬困ったような苦笑を浮かべたが、その顔はすぐに彫像のごとき硬質な表情を取り戻す。その目にはもはや、一片の怯懦すら宿ってはいない。彼が膝を伸ばした拍子に、アングイレルを収めた鞘の先が白大理石の床をこすってちりりと鳴いた。
「おや、お前はその腰に、剣(つるぎ)を提げておいでだね? この王国を護る堅牢な七つ門は、お前自身の手で作られたというのに。その内にありては、お前を害するものなど何一つないはずであろう」
「わたくしもひとかどの武人であることを自負いたしますれば。いついかなるときでさえこのアングイレルを手放すことまかりなりませぬ、伯父上」
 トゥアゴンの声音に茶化すようなものを感じ取ったマイグリンは、しごく慇懃な態度で返答した。甥が自分の稚気に乗ってきたことを察したトゥアゴンは「すばらしき心構えよ、それでこそフィンゴルフィンの家の子ぞ」とことさら大仰なふるまいをしてみせる。マイグリンも目の端で笑いながら、伯父の軽薄な讃辞を一礼することによって受け流したのだった。

 オルファルヒ・エホールを抜けないうちには、ゴンドリンの公子たるマイグリンに傷を負わせる者などどこにもいないであろう。しかし血を流さぬ、目に見えざる瑕ともなれば話は別である。マイグリンの心は、つねにあの類い希なる黄金の輝きによって灼かれているのだ。
 イドリル・ケレブリンダル――マイグリンが死したる母からノルドールの黒髪を受けたのと同じように、北の海峡に没したトゥアゴン妃エレンウェの血よりヴァンヤールの金髪を継いだオンドリンデの姫君。マイグリンの生まれる遙か昔に喪われ、アルドゥデーニエの哀歌で涙と共に語られる黄金の木ラウレリンの光は、今はその黄金の髪でのみ生きている。けして触れることのできぬその輝きは、日々マイグリンから喜びや安らぎの情を奪い、彼の心を虚しいものとさせ、まさしくエオルの予言のとおり「お前の望みのすべてを失」わせつつあった。ゴンドリンに降り注ぐ光はすべて、マイグリンの目にはイドリルから放たれたものに見えた。美しくも残酷なその灯明から逃れるには、闇の中へ隠れるしかなく、昼間はエホリアスの洞穴で採掘を続け、痺れたような安息を得て夜の中へ這い出すのである。


「夜を怖れてかと思うたぞ」
 聞き手の静かな相づちを受けながら、ひとり滔々と話し続けていたトゥアゴンの声の中で、その一言がいやに際立ってマイグリンの耳に響いた。トゥアゴンが言っているのはマイグリンの帯刀についてであったが、その口ぶりは軽妙なもので、取り立てて彼の気を逆なでするようなものではなかった。しかしこれまで、伯父の話を半分聞き流すようにしていたマイグリンは、はじめて妙なひっかかりを覚えて口を開く。
「わたくしは夜と、薄明の中で育まれた子であります。なんじょう今になって、闇を恐るることありましょう?」
 マイグリンの声を受け、トゥアゴンは少しの間押し黙る。しかしその沈黙は甥の反駁に対してのものではないことに、やがてマイグリンは気がついた。トゥアゴンの賢しげな眉がかすかに動き、浅い溝が間にすっと走る。しかしそれも一瞬のことで、眉間の皺が消え去ったのちにはその双眸に哀悼の色がよぎった。アレゼルを思い出している、そして彼女を殺した男のことも――マイグリンの訝るような眼差しを受け、トゥアゴンはいつもの笑みを顔に浮かべて甥の肩に手を載せた。
「そうであったな……まるで古き時代、まだこの世に太陽も月もなかった時分のエルダールのようだな。それこそクイヴィエーネンのほとりでまどろんでいたころの……」
 トゥアゴン自身も知らぬエルダールの黎明期、父祖らが過ごした上古に思いをはせる彼の目はどこか遠くを見つめていた。星々の時代にございますか、とつぶやくように問うたマイグリンの声に、トゥアゴンはゆっくりと首肯を返す。伯父の目に宿る暖かな光とは裏腹に、それを見るマイグリンの心にはナン・エルモスの森の暗闇が満ちていた。彼自身は父と同じモリクウェンディなのであり、目の前に立つ伯父トゥアゴンや亡母アレゼル、そして王女イドリルのようなカラクウェンディには遠くおよばず、どれほど彼の体内に上のエルフの血が濃く流れていようとも、マイグリンが二本の木を見ることができなかったという事実は覆せないのである。それだからこそ、ラウレリンの再来と謳われるイドリル姫を強く求めるのかもしれなかった。そしてそれはやはり、彼には得ることのできないものなのである。

 それでもマイグリンは、つねに彼がそうであるようにこのときも感情を表に出すことはしなかった。それゆえに賢者トゥアゴンも甥の胸の裡にひそむ懊悩には気づかずに、ただアレゼルが彼の手元を離れていたころを思わせる会話を止めようと、小さな嘆息とともに「ところで」とつぶやき、露台から少し身を乗り出すようにして薄暗い街路を見下ろした。
「何用でこのような夜更けに外へ? わたしはただの不眠だがね」
 そう言ってトゥアゴンは、どこかおもしろそうな笑みを浮かべて甥を見やる。跳ね上がった口角に代わって下に向いたまなじり、そして白い頬に打たれた小さな点のようなえくぼが、マイグリンには母の容貌と重なって思えた。三人で狩りに出ましょうと言ったとき、満月の光に淡い虹が出るを見ましたよと言ったとき、アレゼルの顔はまさしく今のトゥアゴンと同じく、悪戯を思いついた子どもに似た表情をしていた。そしてゴンドリンへ帰りましょうと息子が言うのを聞いたとき、彼女はこれと同じ笑みをマイグリンに向けたのである。
「母の廟へ、参ったのでございます」