棄てゆくものを
家康様、家康様。涙交じりの声が聞こえる。じくりじくりと頭の底辺のあたりが痛み、家康は無意識に顔を歪めた。じくり。家康様。左腕にも寒気が走り、次にその寒気が異様な熱に変わる。あつい、あつい。いたい。家康様。だが再び呼び声を聞いた途端、家康は食い縛っていた歯を緩め、代わりに唇を引き結んだ。熱い、痛い。それを声にも、表情にも表わしはしない。するものか。でもいてえよな。何でこんな痛えんだっけな。目蓋の裏で小さな子供の姿をした自分が、笑った。何でだっけ、なあ?問いかけるように笑う。
――家康!
鋭い声音が耳に蘇った瞬間に、家康は目蓋を開いた。
唐突に広がった視界に映るのは、爆ぜる篝火の揺らめきと、遠い夜天だった。自分はどうやら仰向けに寝かされているらしい――そしてそれ以外の現状がわからずに混乱した家康が視線を他に映そうとした時、
「家康様ァ!」
歓喜に打ち震える声をあげて、わっと群がる徳川の家臣たちの安堵の顔が、仰のいた視界を埋め尽くした。
「意識が戻られましたか!良かった。良かった……!」
互いに押しあうようにして家康の元へと身を乗り出す男たちを見上げる家康は、まだどこか朦朧としている。考えるよりも先に、家康は自分の身体へ意識を向けた。両脚は、動く。痛みもない。右腕も問題はない。左腕の、感覚がなかった。家康は眉を顰め、そっと拳を握ろうとしたがどうにも感覚が遠く、出来たのか出来なかったのかもわからなかった。そして何よりも、頭が絶えず鈍痛を訴える。額から後頭部にかけて巻かれた包帯を認識し、家康はようやく思い出した。
鉄の槌を受けたのだ。
把握した途端、家康は問いを発した。
「ここは……本陣か?」
掠れた声での問いかけに、慌てて配下のひとりが現況を告げる。
「は。陣の隅に幕を張りお借りしています。竹中殿がそのようにと仰られ…」
「ワシは何故……いや、それよりも戦況は」
「既に終盤を迎えております。豊臣の勝利にまず違いはなく―――」
それを聞いて即座に身を起こそうとした家康を、数人が押し戻すようにして制した。
「何をなさるのですか!まだ動かれては」
「……秀吉公と半兵衛殿の元へ、」
失態だ。家康は任された役目を果たせず、この戦の殆どを寝て過ごしたことになる。意識が戻ったからには例え戦が終わりを迎えようと馳せ参じなければなるまいと、強いて笑みを浮かべて配下を退けた。
「大丈夫だ。もう痛みは殆どない、少しばかり動いたほうが気分も良さそうだ」
それが弱みを見せまいとする虚勢なのか、あるいは本心なのか、笑みを盾にした家康を読み解ける者は少ない。まして徳川軍の兵士は家康を敬愛するが故に、その望みに反することができないのだ。それでも今はどうか安静にと、懇願する眼を向けはするが、押し留める手は離れていった。
それに対してすまないなと内心で礼を言って、家康は再び身を起こすために腹に力を入れようとした。
だが、その時に不意に陣幕の向こうから姿を見せた人影を眼にして、驚いた家康は思わず力を抜いてしまった。
音もなく姿を現した男の、篝火の灯を受ける秀麗な顔は無表情に家康を見つめている。
「……三成、」
家康が呼ぶと同時に、徳川兵もその姿を振り返った――と、途端にその者たちが全員平伏した。家康はぎょっとして己の配下たちを見つめる。今までは、例え家康が思いつく美点を挙げて褒めようとも、徳川兵には三成を敬遠する者が多かったのだ。戦場で見せる空恐ろしい姿や、豊臣に狂信的な忠誠を捧げる姿、何よりも徳川を危機へと陥らせた豊臣の将であったという事実に、家康が宥めようとも心を尖らす者が多かった。だが今、その者たちが率先して三成へ頭を下げている。
そして感極まった声で叫んだ。
「石田殿!我ら徳川の全兵士を代表して御礼申し上げる!家康様をお助け頂いたこと、どれほどの言葉を以ってしても感謝の意を伝えきれませぬ…!」
三成は自分の前に連なった平伏する兵たちを興味なさ気に見ただけで、何の言葉を返すでもなかった。それでも感涙している兵たちは顔をあげずに控えたままだ。
家康もまた、かける言葉も見当たらずにただ驚いてその光景を見ていた。家康もやっと理解したのだ。そもそもにして、刃が走り矢が飛び交う戦場で倒れたはずの自分が、ここで部下に囲まれ無事に眼を覚ますに至る過程を。
「……三成、お前がワシを」
だが状況を把握した家康が声をかけても、三成の無表情は崩れなかった。家康はその妙な静けさに、違和感を覚えて口を噤み、三成の眼を見る。そこにあるものを読み切れず、しばし炎の爆ぜる音ばかりが周囲を包み込んだ。
「……後はワシが直接礼を述べよう。……お前たち、一度外してくれないか」
放っていては三成が声をかけないと悟った家康が、代わりに促す。そろそろと顔をあげた徳川家臣は、躊躇いながらも主の言葉に従った。普段であれば怪我を負った主を一人残すなど断固として反対するが、ほかならぬ主と、その恩人が相手であれば従わないわけにもいかない。
反応を返さない三成に対しても再び礼をしてから、徳川の兵はその場を後にした。