ツバサ
「…………」
人がいないことをいい事に、思いっきりしかめつらをして手の中のものに目を落とすクルガンの耳に、誰が聞いてもはっきりと解る、落ちつきなく騒がしい足音が聞こえてくる。
「おおい、おやっさん!ってああ?クルガン?なんでおまえがそこにいるんだよ。」
思ったとおり、闘技場の重い扉からひょこりと顔を出したのは彼の十数年来の相棒だった。
扉の隙間から差し込む今日最後の夕日の光が、彼の髪を透かし、さらに赤く輝かせている。
「めずらしいな、今頃訓練か?……おお、これこれ。」
返事を返さないクルガンに気を悪くするでなく、マイペースに喋るとすたすたと歩み寄り、シードはクルガンの腕からその網の一辺をつまみあげた。
そして一人で勝手にフムフムと頷く。
「うん、これならいけるだろ。サンキュー、クルガン!じゃあな!」
その時最後まで一人で喋り、一人で納得し、背を向けて去ろうとした親友の肩を、クルガンの手がようやく止めた。
「…ちょっと…待て」
はっきり言って、今のシードの勢いに飲まれていたクルガンは、かなりの努力でその言葉を絞り出す。
「これは、どういうことだ。」
「…はあ?」
その質問に心底不思議そうな顔をして振り返ったシードは、クルガンの渋い表情を見て急に腹を抱えて笑い出した。
「…何がおかしい。」
今日はもうシードに振り回されっぱなしだ。
いつもは必ずシードよりも精神的優位に立つはずの自分への怒りもあるが、ムッとした顔でそう聞くクルガンの肩を、涙をふきつつばんばんと叩く。
「いや…くっくっく、悪ィ悪ィ…ちょっとな…今の顔、『あいつ』にすげェ似てたからさ。いやー、やっぱり俺のネーミングセンスは最高だわ。」
などとクルガンにはさっぱり訳の解らない事を言いつつ、やっぱりそのまま去ろうとするシードの頭を、上から鷲づかみにすると、無理矢理自分の方に向かせる。
「…っ。いってェな!やめろってんだろ、その…」
彼に子供扱いされるのを一番嫌うシードは、その行為に噛付くように抗議し、一発蹴りを入れようとして、そのまま体を硬直させた。
…こいつ、真剣に怒ってやがる…
「…『あいつ』とは誰だ?」
氷点下のような声色で問うてくるクルガンの目が据わっている。
「いや…なんつーか…言葉のあやだ。気にするなって」
クルガンを本気で怒らせるととんでもないことになるのを痛いほど知っているシードは、しどろもどろになりつつ、その場を収めようと努力を始めた。
一度…数年前になるか。捕虜にした敵軍の兵士が、詰問をしたシードに向かってツバを吐き掛けたことがあった。
その時、それまではすぐ激昂するシードを諌めながら取り調べを行っていたクルガンが、いきなりその兵士の首を問答無用で斬り飛ばしたのだ。
あれには真剣に驚いた。
自分が受けた侮辱への怒りなど忘れて、慌てて残りの兵士さえもを斬ろうとした彼を止めたのを覚えている。
シードがクルガンを諌めたのは、後にも先にもあの時だけだった。
「…俺の聞き違いだというのか?」
冷ややかなブルーの瞳が真っ直ぐにシードをねめつける。
それは今のシードにとって、狂皇子ルカのひと睨みよりも恐怖だ。
自然に背中に冷たい汗が走る。
「…い、いや、確かに言ったけどな。おまえが気にすることじゃないって。はははははは。」
シードの乾いた笑いにも眉一つ動かさず、クルガンはじっとシードを睨み降ろした。
答えるか、死ぬか?
そんな無言の圧力。本能的に命の危険を感じ、シードはすぐに笑いを止めるとまるで子供のように肩を竦め小さくなる。
戦場ではその勇猛果敢さと命知らずの突撃で名を馳せる彼だが、クルガンに斬られて死ぬのだけは心底遠慮したかった。
なんだか無事に天国ばかりか地獄へさえも行き着けないような気がする。
「悪かった…オレが悪かったよ。どうせお前にはいつか見せようと思ってたんだ。」
両手を挙げ、参ったのポーズを取ると、シードを押さえつけていたクルガンの視線がスッと解かれた。
一気に体が軽くなったような気がして、シードは顔をしかめる。
こいつは本当にメドゥーサみたいな力を持っているんじゃないか?
「解かれば良い。」
そのまま先に立って歩きだしたクルガンの後ろを追いつつ、網を抱えたシードは大きなため息を吐いた。