掌中に在りて 春は麗し
家康の背丈は伸び、幼い愛嬌が消えた精悍な顔立ちを持ち、声の響きが変わり、武器を捨て、身体は逞しく鍛え上げられた。三成もまた背を伸ばし、少女の華が消えた代わりに怜悧で整った男の顔を持ち、苛烈な気性はそのままに、振るう刃も駆ける速度も格段に速くなった。家康は大阪城に常駐しているわけではなく、与えられた領地で過ごすことも多かったが、偶に顔を合わせる時には会うたびに変わりゆく、そして根本的なところでは全く変わらぬ三成を捕まえてはあれこれと口出しをした。
だが積み重ねていく時間のうちに、三成の豊臣崇拝がいよいよ増していくことにも気付いていた。
家康が強きを増長させ弱きを踏み潰す、豊臣の姿勢に疑問を覚えて行くにつれて、色濃く映し出されていった二人の差異。
三成の体内には幾つもの種が植え付けてあったことを、家康は時を経るにつれて思い知らされた。それは突然に開花し始めたわけではなく、時期に合わせて半兵衛が巧みに水を与え、緩やかに芽吹いていった。
刃を振るうことに、命を奪うことに、命を捧げることに一欠けらの躊躇もなく、忠誠と言う名の信奉は深く深く三成の中に根付き、それを奪えば根を失った三成は立つことすらできないのだと。
出逢った時にはとっくに手遅れだったのだ。
それでも三成は家康にとって真っ直ぐで不器用で心に裏表のない、うつくしい男だった。
今、家康の眼の前で、春の明るい景色の中で佇む男と同じように。
* * * * * * * *
「家康、貴様はいつまでこんなことをしているつもりだ?」
家康の相談を遮った三成が問うと、家康はわずかに興を削がれて鼻白んだという顔をした。だが次の瞬間にはいつもと同じく、人の心を鷲掴みにする笑みを浮かべて言った。
「今日のところは陽が落ちるまで、だな。ここならそうそう気付かれないと思わないか?城は遠くはないが、近くもない」
三成は誤魔化しを嫌う。家康の返答など気にもせずに話を進めた。
「人の記憶など曖昧で頼りないものだ」
三成が冷めた声音で告げる。
「さっき、私の声音を、間違えたろう?」
心地よさに負けて、無駄に柔らかさを添えたろう。
家康は無言で、風に舞いあげられる花弁と、その向こうの男の姿を見つめた。三成は自分を晒すようにして両手を広げ、家康に視線を流す。
「違うところはないか?」
「ない!」
家康は即答して立ちあがると、三成に飛びついた。陣羽織を潰して腰を抱き寄せて、そのまま押し潰そうとするかのように両手で三成を抱え込む。肩口に顔を押しつけて、唸るように告げる。
「違わない。何も違わない――ワシはお前を知っている」
三成は両手を下げたまま、抱き返すことはしなかった。籠手や胴のつめたい硬さが拒絶を示しているようで、家康は祈るように目蓋を閉じた。そしてふと眼を開けた時にはすでに、三成は具足を解き、家康と同じような小袖に袴の格好をしている。家康は少しだけ身体を離して、抱え込んでいた三成の顔をそっと窺うように覗いた。三成は口の端を歪ませたような独特な笑みを浮かべ、軽くなった腕をあげると家康の耳を容赦なく引っ張った。
「い、たい!地味に痛いぞ、三成!」
「本当に貴様は勝手な男だな!」
家康は眦に涙すら浮かべながら、それでも満面の笑みを浮かべた。
「ほら、どこも違わないだろう?」
三成はそれに対して何か言おうとしたが、それよりも先に家康が三成の腕を取った。先程までとは違い柔らかな衣に包まれたその腕を掌で擦り、指の一本一本を撫ぜる。
「腕の筋肉のつき方も、腰の細さも、胸にある古傷も、喉仏の形も、ワシを睨むその眼も全部三成だ――そうだろう」
* * * * * * * *
三度だけ、家康は三成と身体を繋げたことがある。
一度目は、ほとんど激情に任せた暴挙に等しかった。
それはちょうど家康が豊臣に身を寄せてから一年程経った頃、互いにようやく幼さを脱ぎ捨てて、家康は武器を捨てて拳で戦うことに慣れ、三成はめざましい武功をあげ始めた頃だ。三成は控えめに言っても、無条件に人に好かれる人間ではなかった。何せ彼が第一とするのは秀吉とその片腕、他に気にかけるのは病に伏せった友だけ。そこに、家康もかろうじて引っかかっているようなものだ。どうしてそこまでと思えるほどに、それ以外を有象無象として切り捨てる三成に対して、自軍内で蠢く反感も、三成が取りたてられる程に増えていった。家康は散々周りを少しは気にかけろと忠告をしたものだが、三成は自身に何も恥じることはないため改めない。そんな中で家康は或る日、通り掛かった場所で口さがない罵倒のひとつを耳にしたのだ。
……石田三成、どこの馬の骨ともわからぬ若造が、所詮尻穴で昇りつめた小姓あがりの分際でよくもあのような澄ました顔を……
妬む心が放つ、よくある種類の誹謗には違いない。
だが家康はそれを耳にした途端に激しい憤りを覚えた。頭の片隅で、 自分でも不思議だと思うほどに唐突に怒りが沸騰した。そして家康の憤怒の発露は、静かだ。故に恐ろしい。
姿を現した家康を見て、それまで歪んだ薄笑いで中傷を言い合っていた数人が、一挙に顔色を失くした。
「っ……」
一人が喉をひくつかせる。他の者もほとんど同じ様子で、固まったまま家康を見ていた。
傍から見た家康は微笑んでいる。そしてその笑みが眼に見えぬ圧力を持って他者を圧倒した。
脳裏で描いた男のただただ一心に神を追う姿、家康はそれを時に苦々しく見てはいるが、その男の足を引き摺ろうと群がる無数の影のほうがよほど憎々しいのだと気付いた。
「お前たち――」
「家康」
だが家康が口を開いたその時に、今まさに思い描いた男が後ろから声をかけた。振り返ればいつものように周囲の何にも興味はないと言いたげな顔を晒した三成が、続けてこう言った。
「さっさと来い、油を売るな」
家康は、三成と約束を交わしていた覚えはない。しかし三成の涼しい眼を見た途端に、頭がすうと冷えたのも確かだった。家康は最後にもう一度だけそこにいた数人に視線をやり、恐れを浮かべて眼を伏せるその者たちを睨んでから、踵を返した三成の後を追った。
前をゆく三成の後を追いかけながら、家康は胸のうちに未だに燻ぶる不快を吐き出すように噛みついていた。
「聞いていて止めたんだろう。何であんなことを言わせておくんだ」
「喚くな」
三成が逆上し、それを家康が宥めるいつもとはまるで逆のようだった。
「くだらんことに一々殺気を出すな」
三成は例え自軍内であっても誰が誰と険悪になろうが関心はないが、その主が家康であったということにはさすがに少し驚いたので引き離したまでだ。そうする程度には、三成は家康を懐へ入れていた。
「……くだらなくない」
家康は意地を張った子供のように言いながら、確かにおかしいなとも思った。家康は本来、怒りも何もすべて自分の内で消化できる性質だ。そうなるように、鍛えてきた。それが根も葉もない浅ましい誹謗中傷程度で――
「くだらん。昔の話だ」
家康は、その場に立ち止まった。耳に入ってきた音が一拍遅れて意味を持つ。
「―――は?」
作品名:掌中に在りて 春は麗し 作家名:karo