そのあいのおもいで
「はい、出会った時の仁王くんは、背はあなたよりだいぶ低かったように思いますが……今のあなたよりもう少し年上だったと思います。目つきが鋭くて、黒い髪をそんなふうに後ろでたばねていました」
柳生は幸せでたまらない時間を回想するように目を細め、俺か、でなくば過去の俺を見つめた。
最後のほう。黒かった髪が、色をなくすまでの時間、柳生と俺は一緒にいたのだろうか。
「白い着物がよく似合っていました。その頃の私は山に住み、出会う人を殺しては食べていたのですが、仁王くんは最初からそれを知っていて、その上で怯えた様子はなく私に挨拶をしました。……一目で私は彼を好きになりました」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て」
手を上げて話をさえぎる。一つのセリフの中に突っ込みどころが多すぎる。
「はい、どうしました?」
柳生は首さえかしげそうなほどの無邪気さで聞いてくるが
「……人を、殺して食べとったの?」
「ええ、そうですが」
人殺し。と言ってもいいのか、妄想のことで呼ばれても警察も困るんじゃないだろうか、そしてタチの悪いイタズラだと思われて俺まで一緒に怒られたら嫌だ。俺は法に訴えるよりも疑問を優先させることにした。
「……なんで?」
「なぜって、……毛がないし、爪も牙もないし、逃げるのは遅いし、いいことずくめじゃないですか」
明らかに狩る目線からの発言だった。それはそうかもしれないがしかし、
「見たとこお前さん、人間……の形しとるじゃろ。同じ形した相手を殺すとか、その……抵抗はなかったんか?」
お前も人間だろうとは言わなかった。妄想を現実にしようと襲い掛かってこられたら勝ち目はない。ボケた老人だってその気になればドアを破壊するくらいできるというし。
「実際の私は、この形ではありません。仁王くんが好むので、こんな姿をとっていました。またこの姿で出会えば、喜んでくれると思ったのですが……」
寂しそうにうつむかれても知るものか、
「自分と同じ大きさで、言葉が通じる相手を、殺して食っとったの?」
「大きいと食べごたえがあって、毎日獲りに行く必要がありませんし、それに案外食べられない部分は多いんですよ」
私は内臓部分は好みません、と柳生は真顔で付け加えた。可食部分が少ないといったって、それでも手足の肉を全部集めればかなりの分量にはなるだろうに。
「そして、言葉は正確に言えば通じているわけではありません」
「どういうこと?」
「なんとなく、通じた気持ちになっているだけです。私は人の言葉を話せませんし、聞き取れません。抑揚のついた一連の音として聞こえ、単語ひとつひとつの意味は理解できませんが……意思を持って話しかけられたときには、なにを言っているのかが分かるのです」
「じゃあ、俺の言葉も通じとらんの?」
「意味は分かりますよ」
だから、たとえ仁王くんが生まれたのが遠い海の向こうでも、私は会いに行ったでしょう。
柳生は迷いなく答えた。俺は、俺の耳には普通に聞こえる柳生の言葉を不思議な気持ちで聴いていた。ただの人間だろう。頭のおかしい人間。そう思う心がだんだん小さくなっていく。柳生の声は、事実の持つ確信に満ちていた。
本当に頭のおかしい人間でなければ、本当の化け物でしかないと、納得せざるを得ないような。
「……それで、『仁王くん』と出会って、幸せに暮らしましたって?」
「ええ、あの人が死ぬまで、幸せに。それが何か? ……仁王くん、本当に思い出していないんですか?」
不安そうに尋ねられる。本当にもなにも、すべてが完全に初耳だ。
「人間と、妖怪が?」
「仁王くんにもよく妖怪とからかわれました」
言いつつも柳生はすこし憮然とした顔をしてみせる。こんなに感情豊かな妖怪もいないと思うのだが。だってまったく人間と変わりない。姿も、大きさも、動きも、表情さえ。
「仁王くんと出会ってからは、彼が言うのでこの格好をして、人間も獲らずに過ごしましたよ。自分と同じ食事をしてくれというのが、彼のたっての希望だったので」
「人間を食うなって?」
「ええ、それを言うために山に入ったそうです。私が人を食うと知っていながら、勇気のある人ですよね」
まったくだという気もするが、それを言うために白い着物で来たのなら、それは村人にとっての生け贄というか人柱というか、そういうものだったんじゃないだろうか。山の神様(この場合魔物か)に捧げる供物というか。柳生自身が気づいていないなら別にいいんだが。
「仁王くん」
柳生が目を細めて俺に手を伸ばした。手つきもゆっくりとしたもので、危害を加える気はないのだろうと思ったが、やはり人を食うだのなんだの言われたあとでは怖い。俺は硬直し、逃げることもできず、咄嗟に首をすくめて目をかたく閉じた。
柳生の手が、ゆっくりと俺の前髪を一筋とり、遊ぶようにぱらぱらと離すことを繰り返す。
「何十年なんでしょうね。あの人の髪が白くなって、動きが遅くなって、最後には歩けなくなって……。私たちは、ずっと一緒に暮らしました。花の綺麗なときも、雪のひどいときも」
「……」
独り言のように柳生は言って、俺は黙って聞いていた。
「最後のほう、仁王くんは出会ったときとは全然違って、なんだか小さくなっていたし、しわくちゃだったし、声も悪くて、動けなくて……変な匂いがしました。仁王くんは自分でもそれを分かっていて、恥ずかしいのか私があまり近寄ると嫌そうに腕をふって、眉をしかめました。でも私は出会ったときと変わらずにずっと彼が好きだった」
小さく、優しく柳生が笑った。
「そう伝えるとやっぱり嫌な顔をされました。そんな言葉を平気で言えるなんてやっぱりお前は人間じゃないと悪態をつかれましたが、私にはその気持ちはよく分からなかった」
そのやりとりを思い出したのか、幸せそうに柳生は続ける。目は、もうとっくに俺ではない俺を見つめていた。
「……あなたが、待てというから待ったんです。あなたと一緒に暮らしたよりずっと長い時間……あなたが、待っていろと言ったから……必ず迎えに行くと言うから……。なのに、なんで来てくれなかったんですか。なんで忘れてしまったんですか……?」
「…………」
知らない。
そんな約束は知らない。
お前と、そんな約束をした男を、俺は知らないのに、
なぜそんな悲しそうな目で声で俺を責めるんだ。俺は悪くないのに。俺は、何も知らないのに。
「あなたが死ぬなら私ももう死ぬと言ったら、止めたくせに。ずっと一緒にいてくれたのに、その何倍も一人で待たせるなんてひどい。楽しいことなんか何もなかった長い時間も、いつかまた変わらないあなたに会えると思ったからこそ耐えられました。待つのに疲れても、眠っているうちにあなたの生まれ変わったのを見過ごしたらと思うと怖くて、ろくに眠れなかった。あなたの顔ばかり声ばかり思い出して、百回も二百回もあなたのいない四季を過ごしました。なのに……知らないだなんて、信じないだなんて言わないでください……」
柳生の両手はいつの間にか俺の肩に置かれていて、でも乱暴に揺さぶるではなく、長い長い時を経てようやく触れられた存在を確かめるように、ただぎゅっとそこを掴んでいた。
俺は、触れる場所が伝えない熱に言葉を失う。