そのあいのおもいで
哀切さを帯びた声で訴える柳生の頬は薄い赤に色づいている。感情が高ぶっていると一目で分かる顔をしていながら、じっとしているだけで汗ばむくらいの、秋とはいえない気温の中、俺に触れる手は体温ともいえないぬるさを保っていた。
「や、ぎゅう……」
その手を払おうと掴んだように見せて、手首の脈を確かめる。ぬるいと冷たいの中間くらいの体温に、とくり、とくりと、ほんの僅かに、ひどく間を置いてうつ鼓動に、
ぞっと背筋が総毛だった。
妄想で体温が下げられるとも、こんな極端な低体温と脈の人間が妄想に取り付かれたとも思えない。ならば、本当にこいつは化け物なのだ。
ごくりと唾を飲んで顔を上げ、柳生の目を見つめ返す。
……その目は、俺に忘れられた悲しみと、それでも再び出会えた喜びに、かすかに潤んでいた。
3
柳生と会った次の日に、結局朝帰りだった姉貴が「うちの前で見知らぬ男を見た」と朝飯の最中に言ったときには、俺は口に入れていた米を噴きだしそうになった。どこに、と必死で冷静さを保って聞けば、向かいの家の壁に寄りかかって俺の部屋を見上げていたという。なかなかイケメンだったなどと呑気の言う女が恨めしくなったが、うちに何か用かと話しかけたと続けられたときには血の気が引いた。それからどうしたのかとせっつくように聞く俺をうさんくさげに見やって(なぜ俺がこんな目で見られなければならないのか)、姉貴は答えた。
「ちょっと戸惑って、仁王くんの…って言うから、弟ですけど、って言ったら、納得したみたいに似てますねって言われたけど。やーねー、化粧してるのに似てるって言われたの初めて」
本当に嫌そうに顔をしかめられる。出かけるときにはアイプチで念入りに二重を作る女にはその発言は不満だったろうが、人食いの妖怪に出会って『似てますね』ですんだのだ、命があっただけありがたいと思ってほしい。
「それから?」
「呼びますかって言ったら、いえまた来ますってどっか行ったけど」
「よかった……ほいほいそのへんの男に声かけるもんじゃなか。変質者かもしれんじゃろ」
「あんたの友達じゃないの? いっつも普通に夜とか朝に来たり帰ったりしてるじゃない。あーでもあんたの友達なら挨拶なんてしないかー」
「そういう問題じゃなかろうが」
女のこういう論点のすり替えにはついていけない。俺は辟易して早々に話を打ち切ったが、拭い去れない恐怖は胸に残った。
柳生は俺の家族に会った。似ていると言った。もしも俺が柳生を相手にしなかったら、姉貴か、もしくは同じ男である弟に、矛先が向くかもしれない。
それだけはさせられない、と、理屈ではない部分で思った。今まで、自分が家族愛にあふれた人間だとは思ったこともなかったのだが。
柳生は俺を愛していた。そして今でも愛している。一度途切れた「幸せ」を、長い年月を経た上で取り戻したいと願っているのだ。最初に願ったときと同じほどの強さで、今でも。
それから柳生は毎晩うちに来た。夜中にそっと訪れてはまるで恋人同士の合図のように小さく窓を叩く。部屋に上がれば、俺が過去を思い出すようにだろう、『俺たち』が過ごした日々の思い出を話してゆく。話の合間合間に反応を待ちわびるようにじっと顔を覗き込まれる緊張感に俺は耐え、何にも気づかないふりをした。柳生はどこで寝起きしているのか、いつ見ても同じ服は別段汚れたりくたびれたりしているわけでもなかった。ただ楽しげに俺と過ごしたいろいろを語り、俺が眠い様子を見せれば少しばかり寂しそうに「さようなら」とベランダから外へ出てゆく。
拒絶しても否定しても、柳生は諦める気配を見せなかった。俺と一緒に山で暮らすことを執拗にせがんだ。
あの頃のように一緒に暮らしましょう、と柳生は俺を山へ連れてゆこうとし、俺は邪険にするのもためらいつつ同情しては負けだと逆らい続ける。しかしこのまま延々と相手をし続ける気力も体力も、俺にはないだろうことは自覚していた。すでに限界は近い。寝不足の頭の芯はもやがかかったように鈍く痛んだ。昼は部活、夜は柳生。俺はこんな事情を家族にも相談できないでいる。
ずっと待っていたという言葉を疑う気はなくなっていたが、それとこれとはまた別の話だ。俺は学校や勉強はともかく、テレビや冷房や携帯やテニスや友人や家族に思いきり心残りがあった。まだ死にたくない。思いはその一言に尽きる。厳密には死ぬわけではないが、気持ち的には死ぬのと同じだ。
俺はため息を飲み込んで何度目かの抵抗を試みる。
「やけえ、お前と一緒には行けんよ。どうせなら何も知らん、生まれてすぐにさらっちまえば良かったんに。もう手遅れじゃ」
「あなたが待てと言ったんですよ。だから今まで、いつ会いに来てくれるのかとそればかりずっと待っていたんです。まさか忘れてるだなんて思わないじゃないですか」
理論で攻めても、ふくれたように言い返される。そのまま押し問答が続き、夜が白んできても柳生は真剣に俺を説得していた(日の光を浴びて平気なのかと尋ねたら当たり前じゃないですかと真顔で言われた)(何が当然なのか俺にはもうよく分からない)。
口論に近い言葉の応酬のあげく、捕まれた腕から伝わる低体温にぞっとして思わず振り払うと、柳生は一瞬ひどく驚いた顔をして、それから傷ついた顔をして、恨みがましい口調で「仁王くんは一度もそんなことはしなかった」と呟いた。それには俺もかっときて言い返す。
「なら諦めてとっとと帰れ! いきなり知らん相手に生まれ変わりだ恋人だ一緒に暮らすだ言われた俺の気持ちも考ええ! 十三年間ここで家族と暮らしとったんじゃ、突然記憶にもない約束で責められてもどうしようもできんわ!」
「なんでですか、なんで……、絶対また会いに行くと言ったじゃないですか。それに仁王くんは、私と出会ったその日に一緒に暮らしてくれました」
「そんなことは知らん! 帰れ!」
俺が本気で激昂しているのを悟ったのか、少し黙って困ったように眉を寄せた柳生はとりなすような笑顔を作り、猫なで声で言う。
「ねえ、仁王くん。あんなに一緒にいたじゃないですか。あの頃はあんなに優しかったのに、どうしてしまったんですか? また一緒に暮らしましょう? もう私たちが過ごした山はないけれど、今私がいるところも、そんなに悪くはないと思うんです。あなたもきっと気に入ります。また一緒に……幸せに暮らしましょう?」
切々と、ドラマだったらここで俺は頷くしかないなというくらいに真剣に、柳生は語りかける。しかし、これはドラマではなかったし、流れで頷いてそれからどうなるという展望も俺にはなかった。
柳生がかわいそうだから「ああいいよ、俺が一緒に暮らしてやる」と言って、そして電気もない水道もないような山中で、一日起きてから寝るまで、そして死ぬまでずっと、こいつの顔だけ見て暮らすというのか。死んだ恋人の生まれ変わりだとかいう、嘘か本当か妄想か分からない話だけを根拠に、俺は今まで大切にしてきた友人や家族や服やゲームや本やそんないろいろの何もかもを捨てなければならないのか。
「絶対イヤじゃ」
目を見て吐き捨てた。