そのあいのおもいで
前世で恋人だろうが約束を交わしていようが、俺自身には何の関係もない。たとえその約束だけを唯一のよすがに数百年を一人で生きていようがだ。
柳生の顔は形容しがたい感情に歪んだ。何かを言いたげに開かれた唇は、僅かなためらいのあと笑みの形に横に引かれた。
「……すみません、私も少し急ぎすぎましたね。ここまで待ったんです、焦りませんから……どうか、思い出してください。私と一緒に過ごした時間を……」
俯き気味に目を伏せ寂しそうに、それでもなんとか笑みをたたえて柳生は言った。正座をして、その両腿の上においた拳をきつく握っていた。俺は向き合ってあぐらをかいて背を丸めていた。柳生から顔を背けていた。
「……思い出せるか分からん。そもそも、人違いかもしれん」
「そんなはずはありません。顔も声も、その髪も、私の知っている仁王くんです」
「証拠はあんのか?」
「証拠……」
写真というものの存在さえ知らない化け物は一瞬言葉に詰まった。
「自分は化け物っていうのも、俺が生まれ変わりっていうのも、何も証拠がないのに信じろってのが無茶だってことくらい分かるじゃろ? だいたい何百年も会わないでいるうちに、記憶が薄れとるかも知らん。実際の仁王くんと俺とが同じ顔だってどうやって証明する?」
「私が覚えていま」
「それだけじゃろ。お前以外、誰も知らんじゃろうが」
言葉を遮られ、柳生は今度こそ黙りこんだ。ここぞとばかりに俺はたたみかける。
「絶対記憶を持って生まれ変わるとか言っといて、実際俺は何も覚えとらんし。お前の勘違いで、本当はもうとっくに生まれ変わって、ただお前が気づいてなくて、相手もお前を見つけられなかったんじゃなか? 俺はただの人間だったんじゃろ? 生まれ変わりが俺だっていうの自体が間違いかもしれん。間違いなら、思い出せなくて当たり前じゃ。そもそもそんな記憶はないんじゃからの」
「そんなはずは……」
小さな声には、反論というほどの力もなかった。柳生は俯いたまま、俺を見もしないで唇だけで呟いた。
「私が、あなたを間違えるはずは……」
「何百年も待ってたって言ったよな。そのうちに、思い出すたびに少しづつ、俺の姿や声が変わっていった可能性はないか? お前が証拠って言った髪じゃが、今はそこらへんの美容……いや、店に頼めば、普通にやってくれる」
その言葉にショックを受けたように柳生は顔を上げた。明らかな動揺に、俺までがつられて少し焦る。
「……あなただからでは、ないのですか。今まで、あなたくらいの年で、そんな髪をした人を見たことはなかった……何よりの証拠だと思ったのに……」
柳生はふらりと立ち上がった。まるで体重のないような動きに一瞬目を奪われた俺に気づかぬげに、さっきの確信に満ちた表情が嘘のように、心細さも露に呟く。
「……それでも、あなたは私の仁王くんです……」
それは言い張るというよりも、そう信じたいと自分に向けて口にしたように聞こえた。生まれ変わりと確信してここに来たのが間違っているのならば、自分はこれから一体どうすればいいのかというような、頼りない声だった。
「……また来ます」
呆然とした、というのがぴったりくる様子で柳生はやってきたベランダへと歩いてゆき、今までは不思議がる様子もなかったガラス戸をじっと数秒見つめ、それでも触って確かめてみるでもなくさっき開いたままだった隙間からすると体を外へ出して、
そして数秒遅れた俺がベランダを覗き込んだときにはもう影も形もなく、ただ風とも言えない風に鉢植えがその葉を静かに揺らしているだけだった。サンダルをつっかけて外に出て、もしやと思って下を眺める。落ちて死んでやいないだろうか。なんとなくそんな、心配のような不安のようなものが心をよぎった。三階から落ちて死ぬかどうかというのは人間でも微妙なところだが、いっそ死んでくれていたほうが俺のためにはよかったと言えなくもないのに。もちろん死体どころか人影もなくて、俺は溜め息をつく。やはり人間ではないのだと実感した。
出会うなり嬉しそうに俺の名前を呼んだ化け物を思い返す。柳生、と呼び返せばそのままなしくずしにそのまま山へ行くことを承知してしまいそうで、俺は柳生の名前を呟くことすらできなかった。
何を望まれているかは分かっている。柳生の願いはひどく単純だ。しかし、応えてやることはできない。
……俺には、できない。
4
寝て起きたら笑えるほどの晴天だった。あまりの天気のよさに、今までのことがすべて悪い夢のように思えた。もしかしたら、本当にリアルな夢だったのかもしれない。誰だってたまにはまるで現実のように色や手触りのある、そんな夢を見るだろう。俺は伸びをして軽く笑った。
……夏だというのに部屋にある全ての窓を閉め、厳重に鍵をかけ、ベランダに続くガラス戸にはカーテンまで引いて、何が夢だ。
着慣れたTシャツも綿のハーフパンツもじったりと汗を吸い、重く湿っていた。
南向きの出窓から見える空が青すぎて嫌になる。俺の人生が変わりかけているというのに空は昨日よりおとといより綺麗に晴れ渡り、鳥はどこか遠くで楽しげに互いを呼び合っていた。俺が生きていても死んでいてもこの世には大した変わりはないのだ。くらりと目眩がした。体を支えるために布団に手をつけば、寝汗で不快に濡れていた。
その単純な不快感だけが確かな現実のように感じられ、俺はしばらく動けなかった。
心が不安定なまま部活に出れば案の定途中で倒れた。休み中最後の部活だったのに。朝飯を食っていないのだから体力が続かなくて当然だが、心労続きでもかまわず普段通りに飯を食える神経があるならここまで悩んでいないだろう。
少し、もしくは長い空白の時間のあと目を覚ませば部室の床にタオルを敷いて寝かされていて、開け放されたドアと窓をそよそよと通ってゆく風が汗ばんだ肌に心地よかった。蒸し暑いことに変わりはないが、屋外にいるよりはずっといい。ふと横向けばストローを挿してあとはもう口をつけるばかりになっている汗をかいたアクエリアスのペットボトルがあって、柳の心遣いに感謝した。
体を起こしてありがたくそれを飲んでいると、ざわざわと喧騒が近づいてくる。聞きなれた声に、部活の休憩を悟った。ひょいと俺の様子を確かめるようにドアからこちらを窺った赤い髪がぱっと引っ込んで、
「仁王起きてんぜ!」
とドアの向こうに告げた。すると話し交わす声が一段と大きくなり、友人たちがわいわいと入ってくる。全国大会で三年が引退していてよかったと心底思った。繰り上がりでレギュラーになれていてよかった。俺含め七人しかいないからまだなんとかこうしていられるが、汗臭い男に周りをみっちりと取り囲まれたらいろいろな意味で死にかねない。
「起きていたのか」
「おう、今な。これ、お前さんか?」
ありがとうと柳にペットボトルを振れば気にするなと頷かれた。
「室内でも熱中症のおそれはある。水分補給は大切だ」
「でもこれ、お前の持ってきたもんじゃろ」
「問題ない。俺なら欲しくなれば買ってこられる」